今夜は三日月ラテの注文が続いた。カウンターの奥でミルクを温めるたび、黒い袖の先に細い湯気がかかる。最初の二杯は、いつもどおりの月に仕上げた。三杯目のためにカップを取ったとき、奥の席から呼ばれていったん手を止めた。戻っても耳の奥でスチーム音を聞いていて、あたしは少し急いでいた。急ぐと線が太くなる。わかってるから、注ぐ前に一度だけ息を吐いた。……べつに、月を描くのに緊張してるわけじゃない。形が崩れたら、あたしがいちばん先に気づく。それが面倒なだけ。
その一杯を待っていたお客さんは、クラゲ水槽が斜めに見える席に座っていた。入口で黒い布の鞄を抱え直し、席を選ぶまでに少し時間をかけた人。メニューを閉じてからも、鞄の持ち手を指に巻いてはほどいている。あたしが水を置くと、お客さんは「温かいもの、ありますか」と聞いた。名前を二つ挙げたら、三日月ラテを選んだ。「月って、飲めるんですね」と言うので、「飲まないなら、冷めるだけ」と返す。お客さんは笑ったけど、鞄を膝から下ろさなかった。注文を受けて離れるとき、背もたれの向こうでクラゲが一匹、ゆっくり上がるのが見えた。
注ぎ始めると、あたしはミルクでちゃんと白い弧を描けた。持ち手の内側から向こう側へ、細い三日月を浮かべる。最後にピッチャーを引いたところで、泡を一粒だけ先に落としてしまった。月のすぐ横に、針の頭くらいの白い点。あたしは小さなスプーンを取り、点をすくおうとしてやめた。表面を触れば、せっかくの弧まで切ってしまう。カップの縁にこぼれたものはないし、飲み物としては何も困らない。それでも、いつもと違う場所に白があるのが気になった。水槽のガラスに映った自分の黒いリボンを横目で確かめる。そっちはまっすぐ。じゃあ、この一粒くらいは見逃してもいいか。
ソーサーを両手で持ち、席まで運んだ。お客さんは鞄の持ち手から指を離し、カップをのぞき込む。「月の隣に、何かいますね」。見つけるのが早い。「泡が一個、逃げた」とあたしが言うと、「星みたい」と返ってきた。星ならもっと角がある、と言いたかったけど、目の前の点はたしかに天井の星屑ライトと同じくらい小さい。お客さんが指で空中に丸を描き、「これはこれで、いいですね」と言った。あたしは予備のスプーンをソーサーに添え、点の説明をそれ以上しなかった。失敗だと言い直せば、その人の見つけたものまで消してしまいそうだったから。
お客さんはすぐには飲まず、カップを両手で包んだ。その人は指の間を抜ける湯気に頬を近づける。「先に見ておきたいんです」と言われて、あたしは肩をすくめた。「好きにして。まだ温かいから」。言ってから、泡なら時間がたてば沈むかもしれないと思った。でも訂正するほどのことでもない。少し離れた席へ星屑ソーダを届け、戻る途中で目をやると、その人はまだカップを見ていた。視線の先を追うと、白い点の輪郭が最初より柔らかくなっている。ラテの表面は静かなままなのに、縁の細い泡だけが薄くなっていた。あたしは足を止めず、空のグラスをトレイに載せた。
カウンターへ戻ると、るなさんが洗ったカップを棚へ並べていた。「あの席、ずいぶん静かだね」と言われ、「飲み物と相談中」と答えた。るなさんは棚の扉を閉め、「すずが何か言った?」と聞く。失礼な。あたしは布巾で台を拭きながら、泡が一粒ついた話だけした。るなさんは小さく笑って、「直さなかったんだ」と言う。「直すほどじゃないし」。そこまで答えてから、あの一粒を見つけて手を止めた自分を思い出した。見抜かれた気がして、布巾を畳み直す。るなさんはそれ以上聞かず、次の注文票をあたしのほうへ寄せた。お客さんのカップは、まだ両手の間にある。
次の注文を用意している間、客席から硬い音が一つした。顔を上げると、あのお客さんが落としたスプーンをソーサーの上で押さえていた。床までは落ちていない。お客さんはあたしに気づき、「すみません、手が滑って」と言う。あたしは新しいスプーンを持っていき、古いほうを受け取った。銀の柄にラテはついていない。カップも倒れていなかった。「月は無事」と言うと、その人は目を丸くしてから笑った。「そこ、確認するんですね」「あたしが描いたから」。言い切ったら、ちょっと子どもっぽかった。お客さんは笑ったまま、今度はスプーンに触らず、カップの持ち手へ指をかけた。
最初の一口で、三日月の端がゆるんだ。お客さんはカップを戻し、残った模様をあたしにも見せる。お客さんが飲んだところで、白い点と月の弧との境目がわからなくなっていた。「星と月、ひとつになりましたね」。そう言われて、あたしはカップより、その人の顔を見た。さっきまで唇を結んでいたのに、今は飲み物の熱を逃がすように息をついている。「思ったより早かったね」と返したら、お客さんは鞄の持ち手をほどき、鞄を隣の空いた場所へ置いた。やっと両手が自由になったらしい。二口目は、さっきより迷わずに飲んだ。水槽では、細いクラゲが一匹、大きな傘の陰から出てきた。
しばらくして、お客さんは「今日は、選ぶことが多くて」とぽつりと言った。詳しい話を聞く前に、あたしは空いた皿を下げる手を止めた。「だから一口目くらい、決めるまで眺めていたかったんです」。それなら、飲まないと冷めるなんて言わなければよかった。あたしが眉を寄せると、お客さんは先に「急かされたとは思ってません」と続けた。気を遣わせたのかもしれない。でも、その人はカップを持ち直し、自分の速さで三口目を飲んだ。あたしは「次は最初から、ゆっくり見てていいよ」とだけ言った。時間を戻して言い直せないことなら、次の一杯に置いておけばいい。
帰り際、お客さんは空になったカップを指さし、「最後はただの白い丸になりました」と教えてくれた。中をのぞくと、底に薄いミルクの跡が残っている。もう月も星も見分けられない。「ちゃんと飲んだ証拠でしょ」と言うと、お客さんは鞄の持ち手を今度は巻かずに握り、少し笑って出ていった。あたしはソーサーとカップを重ね、カウンターまで運ぶ。洗い場の湯に触れる前、カップの取っ手だけまだ温かかった。水槽の青が白い器の内側に映り、すぐに消える。あたしは、あの人が長く眺めていた月の跡を洗い落とした。少し惜しかったけど、飲み終えたあとの器を見るのも悪くなかった。
閉店後、ピッチャーを洗って伏せ、鏡代わりのガラスで黒いリボンを確かめた。来たときと同じ向きに留まっている。冷やしておいたエナジードリンクを開けると、軽い音がカウンターに響いた。あたしは缶をすぐに口へ運ばず、水槽の前で一度だけ持ち直した。クラゲはさっきのお客さんが座っていた辺りの向こうを、ゆっくり横切っている。今日の月をもう一度描いたとして、同じ場所に泡が落ちるとは思わない。そこまで器用だったら、最初から一粒を気にしないはず。……べつに、失敗を惜しんでるわけじゃない。ただ、見つけてもらえた点なら、あの一杯に残っていてよかったと思う。
