開店してすぐ、三日月型のカウンターに一人で座った人がいた。まどろみショコラを頼んで、カップが届くまでのあいだ、紙ナプキンの角を細く折っている。何を作るのか、最初は見ないふりをした。目が合うと、手元を隠したくなることもあるだろうし。藍色の壁に星屑のライトが点き始め、水槽のクラゲがまだ暗いガラスの向こうでゆっくり浮いた。客席にはほかに誰もいない。氷を入れる音まで、やけに遠くへ響く夜だった。
出勤前、控えの場所でエナジードリンクを半分だけ飲んだ。眠いわけじゃない。ただ、開店直後の静けさに、自分の声を先に置きたくなかった。黒いリボンの位置を鏡で確かめてから店に出ると、カウンターの銀色の縁が、照明を細く返していた。客の人は注文のときも小さな声だったし、必要以上に話しかけられたい顔には見えなかった。そういう顔を勝手に決めつけるのも変だけど、少なくとも、折っている手を止めさせるほどの用事は私にはない。湯気の上がるカップを両手で運ぶことだけに集中した。
ショコラを運ぶと、ナプキンは小さな舟になっていた。舟底を指で押して立たせ、カップの横へ置いてある。湯気に乗って、マシュマロの甘い匂いが少しだけこっちへ来た。「器用ですね」と言いかけて、やめた。褒められたくて折っているとは限らないから。代わりに「熱いので、持つところ気をつけて」とだけ言った。その人は顔を上げてうなずき、「待ってる間、手が暇で」と笑った。誰を待っているのかは聞かなかった。舟は銀色のコースターの端で、出航する予定もないみたいにじっとしていた。
少しして、入口の階段から足音がした。待ち人かと思ったら、ひまりが補充用のグラスを抱えて戻ってきただけだった。あいつは舟を見るなり目を丸くして、私に何か言いかける。私はトレーを顎で示して、グラスを棚へ運ぶよう促した。ひまりは唇を尖らせたけど、ちゃんと静かに歩いた。あとで「すずちゃん、ちっちゃい舟だもんっ」と耳打ちしてきたから、「見ればわかる」と返す。本人に聞こえない距離を選んでいるところは、あいつにしては気が利いていたと思う。……本人には言わないけど。
問題は、舟のそばに落ちた一滴だった。カウンターの上には水槽のガラスを拭くための細い霧吹きが置きっぱなしになっていた。私が棚へ戻すとき、ノズルから残った水が落ちたらしい。気づいたときには、舟の片側だけがしっとり沈んでいた。客の人は「あ」と小さく声を出し、濡れた紙を破らないように指を浮かせた。私のせいだ。なのに最初の一瞬、濡れたところを見つめるだけで、謝る言葉が遅れた。きれいに立っていたものを、こんなふうに崩すのは簡単すぎる。
「ごめん。私が落とした水」と言って、乾いたナプキンを一枚差し出した。客の人は「大丈夫です。また折ればいいので」と言う。でも、濡れた舟を捨てる手は止まっていた。私は空いた小皿を持ってきて、舟の底に触れないよう、コースターごと少しずつ滑らせた。水を吸った紙は形を失いかけていたけれど、先端はまだ上を向いている。カウンターに残った丸い水の跡を拭く。手を動かしてから、ようやく謝った言葉が自分のものになった気がした。「ここなら、これ以上濡れない」と小皿を置くと、その人は安心したように息を吐いた。たった一枚の紙にそこまでするの、と自分でも思った。思ったけど、手を引っ込める理由にはならなかった。
「待っている人、遅いんですか」と、余計なことを聞いたかもしれない。客の人は時計を見ずに首を振った。「今日は一人です。約束してたわけじゃなくて、ここまで来たら誰かに話しかけられるかなって。でも、静かですね」。なるほど。さっきの階段の音に、私のほうが勝手に続きを作っていたらしい。私は水槽の方を見た。クラゲは薄い青の中で、互いに近づいてもぶつからないくらいの速さで漂っている。「静かな日もある。悪くはないけど、話す相手が欲しいなら、私でよければ」と言った。言ってから少し恥ずかしくなったので、空のトレーを抱え直した。
その人は、紙の舟を作るのが子どものころからの癖だと教えてくれた。新しい場所へ入ると、何か一つ、手元で完成させたくなるらしい。私は「じゃあ、ここはもう新しくないね」と返した。舟ができたから、と付け足さなくても通じたようで、向こうはショコラをひと口飲んで笑った。私も昔、黒いリボンがうまく結べない日に、結び目だけ何度もほどいてやり直したことがある。今日は出勤前に一回で決まった。その話まではしなかったけど、指先が落ち着くまで何かを繰り返したい気持ちは、少しわかる。
客の人が小皿を見つめたまま「水槽の近くだと、早く乾きますか」と聞いた。私は「たぶん逆。あっちは少し湿ってる」と答え、代わりに水槽がよく見える席を示した。舟はここで休ませて、人だけ見に行けばいい。その人はカップを置いて立ち、ガラスの前でしばらくクラゲを眺めた。私も一歩離れて並ぶ。薄い傘が開くたび、床の光がわずかに揺れる。「あの子たち、急がないですね」と言われて、「閉店までに何か仕上げる必要、ないから」と返した。自分の言葉が妙にうらやましく聞こえて、少し笑いそうになった。
しずくが水槽の照明を一段落としに来たころ、客席にはもう何人か増えていた。私は注文を取りに行き、戻ってから小皿の舟を見た。濡れた片側は波を打ったままだが、紙の色はほとんど元に戻っている。「乾いたみたい」と告げると、客の人はそっと持ち上げ、今度は自分のカップから離して置いた。「さっきは、ありがとう」と言われたので、「私が濡らしたんだけど」と返す。しずくは隣で何も言わず、ただ小皿をもう少し水槽の光が当たる場所へ寄せた。青い明かりの端に、舟の影が小さくできる。あの子とは、こういうとき言葉を足さなくて済む。
閉店が近づくと、客の人は舟を持って帰るため、乾いたナプキンでふんわり包んだ。折り目をつぶさないよう両手で扱うのを見て、今日の失敗が完全には消えなくてもいいのかもしれないと思った。紙の端には、水の跡が薄く残っている。最初と同じ舟ではない。でも、持ち帰れる形にはなった。帰り際、その人は「また一人で来てもいいですか」と聞いた。「席が空いてれば。……べつに、一人でも困らないし」と答えると、声に出した後半が妙に余計だった。ひまりが奥で笑う気配がしたので、そっちは見なかった。
片づけのとき、霧吹きのノズルを締めて棚の奥にしまった。小皿を洗い、水槽の前を通る。クラゲの影がガラスに重なり、離れて、また重なる。今夜あの人が誰とも話さず帰っていたとしても、それはそれで一つの夜だったはず。だけど、私は舟を濡らして、謝って、少しだけ話した。上手な始まり方じゃない。エプロンの星の刺繍に指を置くと、糸の盛り上がりが指先に触れた。開店前にはあんなに広く感じた客席も、今は椅子を戻す手の届く範囲にある。次に同じ席が埋まったら、水のない小皿を先に出すかもしれない。……べつに、舟を待ってるわけじゃないけど。
