開店前、水槽の前に立って、黒いリボンの端を結び直した。鏡なら更衣室にあるのに、ここでやるほうが落ち着く。クラゲが一匹、私の肩のあたりをゆっくり通り過ぎた。ガラスに映るエプロンの星と重なって、ちょっとだけ変な制服になる。今日は天井の星屑ライトがいつもより明るく見えた。たぶん私が眠いだけ。新しいエナジードリンクを開けるほどでもなくて、缶をしまったまま三日月型のカウンターへ戻った。スプーンを並べる音が一つずつ揃うと、頭の中の遅い時計もやっと動き始める。

最初のお客さんが入ってきたのは、ドアの向こうの明かりがまだ少し残っているころ。コートの袖を握ったまま、水槽側とカウンター側を見比べていた。私が「どっちでも、空いてる」と言うと、「じゃあ、青が見えるほう」と小さな声で答えた。案内した席に腰を下ろしてからも、その人はメニューを開かず、グラスのないテーブルに両手を置いていた。天井の星がテーブルの銀の縁に映る席で、椅子を引けばクラゲを正面から見られる。そう説明しようとして、言葉を飲み込んだ。もうその人は水槽を見ていたから。急かす理由もない。私はお冷やを置き、三日月の先まで戻って、注文用の紙を一枚だけ手元に残した。必要になったら呼べる距離にいる、それくらいがちょうどいい夜もある。

しばらくして、その人は星屑ソーダを頼んだ。「青いの、飲んでみたくて」と言って、ようやく袖から手を離す。氷をグラスへ落とすと、からん、と軽い音がした。青いソーダを注いで、銀箔をひとつまみ。水面の下で細い光が回って、泡と一緒に上がってくる。細いストローを添える前に、泡がグラスの内側に小さな列を作った。急いで運ぶと消えてしまう、いつも見逃すくらいの短い列。運ぶ途中、水槽の光がグラスの縁を透かした。向こう側にいるクラゲまで飲み物の中へ入ったように見えたから、私は足を止めずに少しだけ持ち方を変えた。席に置くと、その人はまず一口飲むのではなく、グラスの底に落ちていく銀をじっと見ていた。

「沈んじゃうんですね」と言われたので、「あとでまた浮くやつもある」と答えた。知ったふうな顔をしたけど、実際、銀箔は泡に押されて上がったり下がったりする。その人は笑いかけて、でもすぐに視線を落とした。そこで初めて、テーブルの端に小さな紙の封筒があるのに気づいた。口は閉じられていなくて、中から淡い色の便箋が少し見える。私が見たと気づいたのか、「手紙を書くつもりで来たんです」と教えてくれた。誰宛てかまでは聞かなかった。カウンターでお客さんの秘密を集めてるわけじゃない。…べつに、気にならなかったと言えば嘘になるけど。

その人はペンを持っていたのに、便箋を広げるまでが長かった。クラゲが水槽の端へ着いて、折り返して、もう一度同じところへ来るくらい。私は空いた皿を下げたり、銀のトレーを拭いたりしながら、ときどき水槽の方を見た。紙にはまだ何も書かれていない。水槽の青が白い便箋に薄く落ちて、紙だけが先に夜を吸っているみたいだった。何か言ってあげればいい、という顔で近づくのは違う気がした。言葉が出ない時間には、その人だけの形がある。私だって、リボンの結び目一つ直すのに、誰にも説明したくない朝がある。

ちょうどそのとき、テーブルに置いたお冷やのコースターが、グラスの水滴で便箋の方へ滑りかけた。私は布巾を持って寄り、「これ、替える」とだけ言って、新しいコースターを置いた。古い一枚を持ち上げると、下に丸い水の跡ができていた。便箋までは届いていない。その人は大げさに礼を言いかけたけど、私が「紙、無事」と先に言うと、肩の力を抜いて笑った。そこから話題が増えたわけじゃない。ただ、ペンのキャップが外れる小さな音が聞こえた。私は振り向かずに、布巾を絞る手を少しだけゆっくりにした。

しずくが水槽の掃除道具を戻しに来て、私の隣で足を止めた。二人で何も言わず、クラゲがガラスの近くを漂うのを見る。あの子と並ぶと、沈黙を埋めなくていいから楽。しずくは乾いた布を棚へ置いてから、「今日は光がやわらかいかもしれないね」と言った。私は「照明、同じだけど」と返した。しずくは否定せず、テーブルの方を一度見て、奥へ戻っていった。私もそこへ目を向けた。ペンを握る指の影が、白い紙の角に細く伸びていた。さっきまで封筒を押さえていた手は、もう動かないように紙を押さえている。たしかに、さっきより青の輪郭が丸い。水槽そのものが変わったわけじゃないのに、見る場所が一歩ずれると違う色になる。そんなことまで認めたら、しずくに何か見透かされそうで、声には出さなかった。

手紙を書いていた人は、最初の一行を書いてから早かった。ときどきペン先を止め、グラスの銀が浮くのを待つみたいに顔を上げる。それから、また紙へ戻る。紙を裏返すときだけ、端が空気を切ってかすかに鳴った。壁の向こうで食器を重ねる音、水槽の低い水音、その間に一枚の紙の音が混ざる。店は静かなままなのに、あの席だけ何か進んでいるのがわかった。私は近づく回数を増やさず、氷が小さくなったころに「お水、いる?」とだけ聞いた。「お願いします」と返ってきた声は、入ってきたときより少しはっきりしていた。注ぎ足した水の表面で、天井の星が一瞬だけ揺れた。封筒の中身は相変わらず知らない。でも、書き始める前と書き終わる前で、テーブルの上の空気が変わることくらいはわかった。青いソーダも半分になっていた。

帰るとき、その人は便箋を封筒に入れ、蓋を折る前にもう一度だけ水槽を見た。「ここだと、書けました」と言う。私は「場所がよかっただけでしょ」と返した。少し意地悪な言い方になったから、空いたグラスを取るふりをして目をそらす。すると、「でも、紙が濡れないようにしてくれたから」と続いた。…べつに、あれは普通の仕事だ。そう言いかけて、やめた。「次は、飲む前にも銀、見てみて」と言うと、その人は封筒を大事そうに持ち直して、うなずいた。ドアが閉まったあとも、その席にはコースターの乾いた丸が残っていた。

片づけの最後に、私は水槽の前へ戻った。クラゲは相変わらず行き先を決めていないような速さで泳ぐ。ガラスに映った黒いリボンは、朝より少しだけ斜めになっていたけれど、直さなかった。書きかけの言葉も、飲みかけのソーダも、途中のままで席に置いていい時間がある。今夜あの人が持って帰ったのは封筒一枚で、ここに残ったのはただの水の輪。それでも、その輪が乾くまでの間、私は誰かの最初の一行のそばにいた。そう考えると、眠気で重かった足が少し軽い。…べつに、いいことをしたつもりじゃない。また青が見たくなったら、あの席を空けておくだけ。