今日の階段には、外の冷たい空気がいつもより長く残っていた。扉を開けるたび、秋が一段ずつ地下へ降りてくるみたい。開店前に飲み終えたエナジードリンクの缶を片づけて、鏡の前で黒いリボンの位置を直した。眠そうな顔をしていても、そこが曲がっているのは許せない。ラベンダーのエプロンの月と星を指でならし、三日月型のカウンターへ戻る。星屑のライトが深い藍色の壁に落ちて、まだ誰も座っていない椅子の背を細く照らしていた。入口のガラスに曇りが浮いたので、布巾で小さな丸を描くように拭いた。外の明かりがその丸から差して、すぐ藍色に飲まれる。静かな始まりは嫌いじゃない。……べつに、誰かを待っていたわけでもないけど。
最初に来たお客さんは、両手に収まる小さな箱を持っていた。薄い紙で包まれた箱には、ラベンダー色の細い紐が十字にかかっている。紙の四隅には爪で押したような折り目があり、持ち歩く間も形が崩れないようにしていたらしい。席を選ぶとき、その人は水槽の前で立ち止まり、クラゲが一度沈んで、また上がるのを見届けてから腰を下ろした。「まどろみショコラをください。熱いままで」と言われたから、「熱いのを冷まして出す趣味はないよ」と返した。笑われた。そういうつもりで言ったんじゃない。注文を通して振り向くと、箱はテーブルの真ん中に置かれ、結び目だけが何度もその人の指に触れられていた。
ショコラを運ぶころには、マシュマロの白が湯気で少しだけ柔らかくなっていた。皿を置くために箱を端へ寄せてもらうと、紐の片方がするりと抜けた。輪がほどけ、垂れた先が床に触れる。「あ」と声を出したのはお客さんのほう。私は先にしゃがみ、椅子の脚に引っかかる前に紐を拾った。細い布は指に吸いつくようで、先端だけ少し毛羽立っている。床の冷たさが膝に伝わったけれど、包み紙には触れずに済んだ。きっと何度も結び直したんだろう。「これ、ほどけやすいやつだね」と言うと、「家ではちゃんと結べたんです」と、小さく言い返された。言い訳の速さが、ちょっと私に似ていた。
「結び直していい?」と聞いたら、その人は箱を両手でこちらへ押した。「渡す相手が、もうすぐ来るんです。大したものじゃないけど、変な結び目で渡したくなくて」。中身は聞かない。見えないものの話を勝手に大きくするのも好きじゃない。カウンターの明るいところへ箱を運び、紐をいったんまっすぐ伸ばした。紙の下に指を差し込むと箱は予想より軽く、かすかな音もしなかった。だから余計に、包みだけは乱したくない。向きをそろえ、片方を押さえて、もう片方で輪を作る。普段、自分の髪の黒いリボンを結ぶときと手順は同じはずなのに、見られていると指が少しもたつく。一回目は左右の輪の大きさが違った。私は黙ってほどいた。
「慣れてそうなのに」と背中から声がした。「失礼だね。慣れてる人でも、失敗くらいする」。そう返して二回目を作ると、今度は結び目が箱の角へ寄りすぎた。薄い包み紙を傷めないよう、爪を立てずに少しずつ中央へ滑らせたが、やっぱり気に入らず、もう一度ほどいた。黒いレースや銀色の飾りがついた服を眺めるのは好きだけど、可愛いものほど細部の手間を隠している。今日はそれを、こんな小さな箱に教えられているみたいで癪だった。水槽の青が紙の上を通り、薄い紫が一瞬だけ夜の色に変わる。三度目は箱を回して光の向きを確かめてから、息を止めて紐を締めた。左右の輪がようやく同じくらいの長さになった。
箱を返す前に、私は少し離れて眺めた。斜めから見ればまだ完璧じゃない。でも、手に持ったとき結び目がこちらを向き、指で触れてもほどけない。その人に渡すと、「今度は大丈夫そう」と言って、親指でそっと中央を押した。箱は最初よりほんの少し高く持ち上げられた。確かめるためなのか、誰かに見せる練習なのかはわからない。ショコラの表面では、マシュマロの角が丸くなっている。「冷めるよ」と告げると、「さっき熱いままでって頼んだのに」とまた笑われた。……言葉尻を拾うのがうまいお客さんだ。私は空いたトレーを持ち上げ、返事の代わりに顎でカップを示した。ひと口飲んだその人の肩が、来たときより少し下がった。
それからしばらく、私は別の席のグラスを拭きながら、水槽の前を横目で見ていた。氷をすくう音、皿を重ねる音、階段の向こうから届く足音。その間にクラゲの影が壁をゆっくり渡り、小さな箱の輪にも光が乗る。あの席は天井の星屑ライトから少し外れていて、ふだんなら暗く感じる場所だ。でも今夜は、カップから立つ湯気が青い光をつかまえていた。お客さんは何度か扉のほうを見たあと、箱をテーブルの端から自分のほうへ戻した。急かされるのが嫌で、私も視線を外した。待つ時間には、その人だけの形がある。横から勝手に触れば、さっき整えた輪までまた歪みそうだった。
次に扉の鈴が鳴ったとき、お客さんは立ち上がりかけて、すぐ座り直した。入ってきたのは別の席の常連さんで、短く会釈をして奥へ行った。期待した顔を見てしまった気がして、私は水を足しに行くふりをした。手にした水差しの銀色に、相手の伏せた目がぼんやり映る。「そんなに見てないよ」と言う前に、「見てましたよね」と先に言われる。「見てない。グラスの残りを見ただけ」。まだ半分も残っているショコラを指すと、お客さんはようやく苦笑いをした。その人は、箱を膝に乗せずテーブルに置いたまま、両手を温かいカップに戻した。私も水は足さず、静かに下がった。
少し後に、鈴がもう一度鳴った。今度は水槽の前の人が迷わず立ったので、振り返らなくてもわかった。私はカウンターの内側でスプーンを並べ直し、話の中身が聞こえない距離にいた。見えたのは、ラベンダー色の輪が二人の間をゆっくり移るところだけ。相手は箱より先に結び目を見て、それから両手で受け取った。渡した人は一歩遅れて肩の力を抜き、空いた手でカップの取っ手をつかんだ。何が入っていたか、どんな日を祝うのか、最後まで知らない。それでいい。二人が席に戻ると、星屑ソーダの注文が一つ増えた。銀色の光がグラスの底で揺れて、ショコラの隣に小さな夜空ができた。
閉店前、テーブルを拭きに行くと、箱があった場所には四角い跡も残っていなかった。カップの輪染みを布巾で消し、椅子を元の角度へ戻す。布巾を絞ると、温かかったショコラの甘い匂いがほんの少しだけ戻ってきた。今日私がしたことは、床から紐を拾って、二度失敗して、三度目に結んだだけ。たいした手柄じゃない。それでも髪の黒いリボンを外すとき、自分の指があの細い布の感触を覚えていることに気づいた。水槽ではクラゲが変わらない速さで上がっていく。誰かが大事にしたいものの端を、一瞬だけ預かった夜。……べつに、嬉しかったわけじゃない。ただ、次に同じ紐を見つけたら、たぶんまた拾う。
