今夜の最初の音は、グラスでもドアの鈴でもなく、薄いコースターが床に落ちる、ぱた、という間の抜けた音だった。クラゲの水槽にいちばん近い席で、星屑ソーダのグラスを持ち上げた人が、冷たい底にくっついたコースターごと浮かせてしまったらしい。ひと呼吸遅れてそれだけが剥がれ、椅子の脚のそばへ滑っていった。まだ店は混み始める前で、星屑ライトのかすかな唸りまで聞こえそうな静けさだったから、落ちた人は必要以上に大きな音を立てたみたいな顔をした。私は三日月型のカウンターの向こうで、黒いリボンの位置を鏡も見ずに直しながら、その一部始終を見ていた。
「すみません」と言われるより先に、新しいコースターと乾いた布を持って席へ行った。謝るほどのことじゃないし、誰かの飲み物がこぼれたわけでもない。拾おうとして身をかがめたその人の手より、私のほうが少し早く床に届いた。「そのまま飲んで。床は私がやるから」と言うと、相手はグラスを両手で抱えたまま、小さくうなずいた。布で卓上の丸い水滴を拭く。銀色の光が一瞬布の端に乗って、すぐ消えた。エプロンに縫われた月の糸まで濡らさずに済んだのが、妙にうれしい。……べつに、仕事が増えたのを喜んだわけじゃない。濡れた跡をきれいに消せた、それだけ。
新しいコースターをグラスの下に敷くとき、いつもの真ん中から指一本ぶんだけ水槽側へずらした。卓上に揺れる青い光が、濡れたグラスを通って、コースターの白い縁へ届いたからだ。透けたソーダの中を銀箔がゆっくり回る。水槽のクラゲも向こう側で同じように回って見えて、どちらが飲み物でどちらが水なのか、しばらく判らなくなる。相手が「ここだと、クラゲがグラスの中にもいるみたいですね」と言った。そう見える位置を選んだのは私だけど、言い当てられると少し困る。「席の当たりがよかったんじゃない」と答えたら、「置いてくれた場所のおかげでしょう」と返された。そういうところまで見なくていいのに。
カウンターへ戻る途中、ひまりが小声で「すずちゃん、ちょっと笑った?」と顔を寄せてきた。うるさい、とだけ返したら、あいつはなぜか勝ったような顔をする。水槽の前の席には、ひとりで来る人も、誰かと話しに来る人もいる。今夜のその人は、誰かを待っている様子ではなかった。バッグから本を出しかけて、結局しまい、グラスに映る光を指で追っていた。たぶん、話しかけられたいわけでも、放っておいてほしいわけでもない。そういう曖昧な時間の置き場がここにはある。私も気だるそうな顔のまま、見える範囲だけ見ていればいいと思っていた。
ところが少しして、席から控えめな声がした。「この子たち、同じところを回っているんですか」。クラゲのことだ。私はトレーを置き、水槽の横に立った。よく見ると、一匹だけほかより遅れて上へ浮き、流れに押されて透明な傘を傾けている。「同じに見えるけど、いつも少しずつ違う」と言った。水槽の循環する水の中では、大きな道は似ていても、触れる光も、すれ違う相手も毎回違う。その人は私の指先を追ってから、「じゃあ、さっきから見ていたのは同じ一周じゃないんですね」と笑った。私には観察したことをそのまま口にしただけのつもりだったのに、思いがけずちゃんと返事になったらしい。
そのあと注文が重なって、私は三日月型のカウンターを何度も回った。ラテの表面に小さな月を描き、温かいショコラの皿を渡し、スプーンの向きをそろえる。奥の席から呼ばれて戻ると、ひまりが使い終わったトレーを引き取ってくれた。礼を言う前に次の皿を持たされたから、あとで言えばいいかと思った。忙しくなれば水槽を見る余裕はなくなるはずなのに、銀箔の回るグラスだけは通るたび目に入った。さっきまで指で光を追っていた人は、今度は掌を卓上に置いて、ただクラゲを見ている。肩から力が抜けたように見えた。暗い店内では表情を読み違えることもあるから、勝手に「元気になった」と決めるのは違う。それでも、グラスを置く音が最初より静かになったのは、確かだった。
飲み終わったころ、その人はコースターの端を少し持ち上げて、「これ、持って帰ってもいいですか」と尋ねた。何か立派な記念品に見えたのなら困る。ありふれた紙で、裏には何も書いていない。ただ、星屑ライトが当たると白い縁だけが薄紫に見える。「もう濡れてるし、新しいのを渡す」と言ったけれど、首を横に振られた。「こっちがいいんです。今日の跡があるから」。見れば、水滴の輪は完全な丸にはなっていなかった。途中で途切れて、細い道みたいに端へ伸びている。私が真ん中からずらしたせいだろう。そんな跡を残すつもりはなかったから、何を答えればいいか、一瞬わからなかった。
結局、「乾かしてからしまって。バッグの中、濡れるから」とだけ言った。私は予備のナプキンを一枚差し出し、その人はコースターを挟んで大事そうに受け取った。帰り際、落としたときよりずっと小さな声で「ありがとう」と言われた。今度は床に何も落ちなかったし、布を出す必要もなかった。「またね」と言えばよかったのに、私の口から出たのは「次はくっつかないように気をつけて」という、可愛げのない言葉だった。相手は振り返って、「次も同じ席がいいです」と笑った。いじわるを言ったつもりの私だけが、少し遅れて返事をもらったみたいだった。
席を片づけるころには、藍色の壁に映る水槽の影が長くなっていた。こぼれていないはずのソーダの甘い匂いが、まだテーブルのあたりに残っている気がする。空のグラスをトレーに乗せ、今度は乾いたコースターを一枚、席の端に伏せてみた。片づけ忘れじゃない。誰もいない席で光がどこへ届くのか、確かめたかっただけ。水槽のそばでは布巾を絞る音まで柔らかく聞こえる。椅子を少し引くと、その音がすっと遠くなった。グラスがなければクラゲは映らず、白い紙には水槽の青がぼんやり乗るだけだった。さっきの景色は、あの人がグラスを持ち上げて、落として、私がずらして戻したから生まれた。面倒な偶然の組み合わせ。そう考えると、ちょっとおかしかった。
閉店前、るなさんが水槽の前を通って、伏せたコースターを見た。「ここに置くの、珍しいね」と言われたから、「光の具合を見てただけ」と答えた。るなさんはそれ以上聞かず、クラゲのほうへ目をやった。全部見抜かれている気がして腹が立つけど、何も言わないでいてくれるのは助かる。私は紙を所定の場所に戻し、最後に水槽の青をもう一度見た。遅れて上がっていた一匹が、今度は先に光の中へ入った。毎回同じじゃない、というのは自分で言った言葉だ。明日、あの席でまた誰かがグラスを持ち上げても、同じ跡にはならないだろう。……べつに、それを待っているわけじゃない。でも、新しいコースターは手の届くところに置いておく。
