今夜、開店前に階段のほうから届いた空気は、昨日より少し冷たかった。わたしは三日月型のカウンターでカップを温め、布巾を畳んでから入口の鈴を確かめた。天井の星屑ライトをつけると、藍色の壁の上に小さな光が並ぶ。水槽のクラゲは、明かりがつく前から変わらない速さで泳いでいた。外では雨が降っていない。好きな雨音が聞こえない夜は、代わりに器を棚へ戻す音がよく聞こえる。わたしはカップの取っ手を一つずつ手前に向けた。乾いた受け皿を一枚置くたび、ここまで降りてくる人のために席を用意しているのだと、指先で確かめられる気がした。
ほどなくして、お客さまがひとり扉を開けた。濃い色の上着を腕にかけ、片方の手には薄い手袋を握っている。もう片方の手は上着の陰に隠れていたので、手袋を一組持っているのかは見えなかった。お客さまは水槽から少し離れた席を選び、上着を椅子の背に掛けてから、深く息をついた。座る前に、足元の荷物を椅子の脚に寄せる丁寧な人だった。わたしがメニューを置くと、「青いお茶を、熱いままで」と頼んでくれた。ブルーティーのことだと確かめると、うなずいて、握っていた手袋を膝の上に置いた。指先の縫い目に、淡い銀色の糸が一本だけ混じっていた。
お湯を用意しているあいだ、お客さまが椅子の下をのぞいた。続いて上着のポケットを片方ずつ探り、テーブルの縁を見た。わたしはポットの蓋を閉め、こぼれない場所に置いてから席へ向かった。「何か落としましたか」と聞くと、「もう片方の手袋が、見当たらなくて」と教えてくれた。階段を下りるときは両手にはめていたはずだという。わたしは足元の通路を見たけれど、藍色の床には何もない。扉が開いていないあいだ、入口の鈴も静かなままだった。すぐに一緒に探そうと思ったものの、熱いお茶を途中で放っておくわけにもいかない。「まずお茶を運ぶね。そのあと、入口から順に見てみよう」と伝えた。
カウンターへ戻ると、湯気で少し曇ったポットの底から青が広がっていた。わたしは抽出の時間を確かめ、カップをもう一度温める。急いで注げば早く探しに行けるけれど、熱いまま飲みたいと頼まれた一杯を薄くしたくなかった。トレーにカップと受け皿をのせ、手袋が濡れないよう乾いた小皿も一枚添えた。お客さまの席へ着くと、その人は片方の手袋をまだ膝に置いていた。「ここに置いておくと、なくしにくいかもしれないね」と小皿を示す。お客さまは少し笑い、銀色の糸が見える向きに手袋を置いた。空いた両手でカップを包むと、肩の高さがほんの少し下がった。
わたしは入口まで歩き、扉の内側と足拭きの縁を確かめた。階段を見上げても、足元に落ちたものは見えない。次にお客さまが通った通路をたどると、星屑ライトの光が床に細く落ちていた。濃い色の手袋なら見分けにくいかもしれないと思い、低いところから椅子の脚の間も見た。床の銀色の縁取りに指を沿わせ、狭い隙間も確かめる。るなさんがカウンターの向こうから「何か探してる?」と声をかけてくれる。わたしが事情を話すと、るなさんはほかのお客さまの邪魔にならないよう、空いている席の下を見てくれた。二人で一度、入口から水槽までの道を確かめたけれど、手袋はなかった。
席へ戻ると、お客さまはブルーティーをひと口飲み、「外に置いてきたのかな」と言った。わたしは見つからなかった場所を順に伝えた。探していない場所まで「ありません」と決めてしまわないようにしたかったからだ。「階段は暗いし、帰りにもう一度見ます」と、お客さまはカップを置く。カップの縁には湯気がまだ残っていた。その声には、手袋を失くしたことより、探すためにわたしたちの手を止めたことを気にする響きがあった。「今はほかの席も落ち着いているよ。少しだけ、一緒に見よう」と答えると、お客さまは小皿の上の手袋を指で押さえた。わたしは上着のポケットをもう一度見てもいいか尋ね、うなずいてもらってから椅子の横にかがんだ。
お客さまが上着を持ち上げると、背もたれに掛けた裾が少しずれた。わたしはポケットには触れず、裏地の折れたところを指さした。そこに、もう片方の手袋の端が見えた。袖を脱ぐときに上着の内側へ入り、布の重なりに挟まったらしい。お客さまが指先で引き出すと、淡い銀色の糸がこちらにも一本通っていた。裏地の縫い目に引っかかっていないか、二人で指先を見守った。「あった」と言う声はとても小さかったけれど、るなさんにも届いたようだ。カウンターから目が合い、るなさんは短くうなずいた。わたしは椅子を元の位置に戻し、お客さまが二枚目を小皿へ並べるのを待った。
「階段に落としたと思っていました」とお客さまは言った。「ずっと近くにあったのに」。わたしも、最初に上着の袖を見たことを思い出した。あのとき隠れていたのは手だけではなかったのかもしれないね。「温かいところにしまっていたみたい」と言うと、お客さまは少し声を立てて笑った。それから、手袋を重ねずに左右へ開き、左右の指先が同じ長さか確かめるように見つめた。銀色の糸について尋ねると、「擦れたところを、自分で縫い直したんです」と教えてくれた。片方は指の先、もう片方は親指の付け根に、細かな針目がある。近くで見ると、糸の幅は少しずつ違った。わたしは、同じように見えた二枚をその人がすぐ見分けられる理由を、ようやく知った気がした。わたしがカップの向きを直すあいだ、その人はもう一口お茶を飲んだ。さっきまで探すために動いていた手が、今はカップを支えるために静かにそろっていた。
そのあと、わたしはカウンターで使ったポットを洗い、るなさんにお礼を言った。るなさんは「見つかってよかったね」とだけ返し、次のカップを棚から取る。店には別のお客さまの話し声が加わり、水槽の近くで椅子を引く音がした。手袋の席では、お客さまが小皿をテーブルの奥へ寄せ、青いお茶をゆっくり飲んでいた。わたしは別の席の空いた皿を下げるついでに、階段が暗くないかだけ確かめる。扉を少し開けると、上の踊り場まで続く段が見えた。足元の灯りはいつもどおりついていた。探している間は見落としていたけれど、帰り道を照らすには十分な明るさだった。
お客さまが帰るころ、カップには青が少しだけ残っていた。わたしは熱いものがこぼれないよう先にカップを下げ、お客さまが上着を着るのを待つ。今度は二枚の手袋を一枚ずつはめてから、袖口を指で整えていた。「お茶、ちゃんと熱かったです」と言われて、わたしはうれしくなった。見つけた手袋のことではなく、最初の注文を覚えていてくれたから。「よかった。またあたたまりに来てね」と返すと、お客さまは手袋をはめた両手で小さく手を振った。わたしは入口まで見送り、足元の灯りをその人が通り過ぎるまで見ていた。扉が閉まったあと、わたしは乾いた小皿を持ち上げる。皿の表面には何も残っていなかった。それでも、両手がそろったときの小さな笑い声を、しばらく覚えていられるかもしれないね。
