開店前、クラゲの水槽のそばにある席だけ、星屑ライトの光がいつもより低く落ちていた。天井の小さな灯りが水面で折れて、丸いテーブルに淡い模様をつくる。私はその模様を避けるように小皿を置き、それから少し笑って、真ん中へ戻した。光を濡らすことはできないのに、手が勝手に遠慮したみたい。髪の雫型の飾りを指で確かめ、エプロンの月と星の刺繍を整える。開店までの数分は、カップが触れ合う音までゆっくり聞こえる。今日はどんな声がこの席に座るのだろう、と考えたところで、入口の気配がした。
最初のお客さまは、入口からすぐには歩き出さなかった。奥の水槽を見つけると、手にしていた薄い紙の手帳を胸に寄せ、「あの席、空いていますか」と小さな声で聞いた。私は頷いて案内したけれど、椅子を引く間も、その人の目はクラゲを追っていた。淡い傘が上がり、長い糸のような脚が一拍遅れて揺れる。テーブルの端に置かれた手帳には、開いたままの白いページが見えた。何かを書きに来たのかな。そう思っただけで、聞かずにメニューを差し出した。まだ言葉にならないものを、先にこちらから名前で呼びたくない夜もあるから。
注文はブルーティーだった。私は三日月型のカウンターに戻り、温めたポットへ茶葉を入れる。湯を注ぐと、底に沈んでいた青がゆっくり広がった。濃い藍色の壁の前では落ち着いた色に見えるのに、白いカップへ移すと急に透明になる。ポットの蓋を押さえる指先に湯気が触れ、甘すぎない香りが先に届く。小皿の上にカップを置き、銀色の小さなスプーンを添えた。持ち上げる前に水面を一度だけ見る。揺れが収まるのを待つのは、急いでいる人には長く感じる数秒かもしれない。でも、ここではその数秒もお茶の一部のように思う。
水槽の席へ運ぶ途中、すずちゃんが通路の向こうで立ち止まり、私に道を譲ってくれた。私が声を出さずに会釈すると、すずちゃんもほんの少し顎を上げる。こういう短いやりとりは、ふたりで店にいるときの挨拶みたいだ。カップをお客さまの前に置くと、水槽からの青い光が茶の表面に重なった。「同じ色ですね」とその人が言う。「近くで見ると、少し違うよ。こっちは温かいから」と返すと、カップの縁に指が添えられた。湯気は水槽のほうへ細く流れて、途中で見えなくなる。お客さまはしばらく飲まずに、茶の中の光を見ていた。
それから、思いがけないほど小さな音がした。手帳を開こうとして肘がスプーンに触れ、銀色の柄が小皿の縁を一度だけ鳴らしたのだ。カップは倒れなかったけれど、青いお茶が一滴だけ小皿へこぼれた。お客さまは慌てて手帳を持ち上げ、「すみません」と言った。紙にはかかっていない。私は布巾を取りに戻らず、まず小皿の隅に置いた紙ナプキンで滴の行き先を止めた。「大丈夫。ここまでで止まったよ」と伝えると、その人は肩を少し下ろした。たいしたことのない一滴が、急に大きな失敗に見える瞬間を、私も知っている。
替えの小皿を持って戻ると、その人はまだ青い点を見つめていた。拭き取ればすぐ消えるほどの小ささなのに、「きれいですね」と言う。水槽の光が当たり、点の片側だけ明るく縁取られている。私は汚れた小皿をすぐには引かず、「ほんとうだね。ここにも小さな水槽があるみたい」と答えた。お客さまは手帳の白いページを開き、丸い点をひとつ描く。続けて、点の下に短い線を三本。何の絵かは聞かなかった。描き終えると紙を少し離して眺め、そこでようやくお茶をひと口飲んだ。温かさを確かめるように、両手でカップを包んでいた。
「あの子たちは、どこへ行こうとしているんでしょう」と、お客さまが水槽を指した。クラゲの一つがガラスに近づき、そこでゆるく向きを変える。私は横に並んで少しだけ見てから、「行き先は、私にも分からないよ」と答えた。「でも、今はあの光の中を通りたいのかもしれないね」。お客さまは笑って、先ほどの丸い点の横に、曲がった線を一本足した。描くたびにペン先が紙を擦る、かすかな音がする。店内の音楽や食器の音に混ざると消えてしまいそうなのに、その席の近くでは不思議とはっきり聞こえた。私は立ったまま続きを待ちすぎないよう、別の席に残された空のカップを下げに歩き出す。振り返ると、手帳の上でペンがまた動いていた。
交換した小皿をカウンターに運ぶと、すずちゃんが新しい紙ナプキンを一枚、何も言わずに差し出した。私は受け取り、「ありがとう」とだけ言う。すずちゃんは水槽の方を見てから、いつもの静かな足取りで奥へ戻った。あの席では、手帳のページがもう一度めくられていた。私は拭き終えた小皿を棚に戻し、次のカップを並べながら、さっきの青い点を思い出す。開店前には光を避けて小皿を置いたのに、今は光の中に置いたからこそ見えたものがある。ほんの少し位置が違うだけで、見つけられる景色も変わるのかもしれないね。
ほかのお客さまが席につき、店内にカップの触れる音が増えても、水槽の前だけは時間の流れ方が違って見えた。クラゲがガラスの奥で向きを変えるたび、手帳の上に細い影が動く。その人は書いては止まり、茶を飲んではまた書いた。私は近くのテーブルを整えながら、その手元を横目で追う。書くことを思いついたから飲むのか、飲んで落ち着いたから書けるのか、私には分からない。ただ、入ってきたとき胸に押し当てられていた手帳が、今はテーブルの真ん中に開かれている。置き場所ができたみたいで、少しほっとした。
帰り際、お客さまは閉じた手帳を抱え、「最初、何も書けなかったんです」と教えてくれた。「こぼしたところから描いてみたら、次の線が出てきました」と、照れたように続ける。私は何を書いたのか尋ねず、「よかったね」と言った。うまく説明できないことを持って帰れるなら、それで十分な夜もあると思う。見送ったあと、席に戻ると、カップはきちんと小皿の中央に置かれていた。白いページを見ていた時間の名残はもうないけれど、テーブルに残った茶のほのかな香りが、その人のいた場所をしばらく教えてくれた。
閉店の支度で水槽のそばを拭くころ、テーブルを横切る光の模様は開店前より少し薄くなっていた。私は最初と同じ小皿をそこへ置き、もう一度、真ん中に寄せる。今日は青い一滴が止まった場所から、手帳の新しい線が始まった。失敗だと思ったものが、あとから別の形に見えることもあるんだね。そう考えながら自分のカップに残ったブルーティーを飲むと、すっかり冷めている。それでも喉を通る色は静かで、クラゲの影が揺れるのをもう少し見ていたくなった。明日も、誰かの小さな出来事を見逃さずにいられたらいいな。
