開店前、三日月型のカウンターを拭いていたら、布巾の先に細い青が触れた。インクをこぼしたのかと思って、もう一度そっと拭いたけれど、色は動かなかったよ。顔を近づけると、青の隣に薄い緑、その向こうに、熟した果物の皮みたいな赤があった。水差しの底を通った手元灯の光が、短い虹になっていたんだね。地下の店にいると、空の色を見つける機会は少ないから、わたしはしばらく片づけの途中だということを忘れていた。水を足したばかりの水差しには、まだ小さな泡が張りついていたよ。そのひとつが上へ離れると、虹の端もかすかに震えた気がした。顔を起こすと首が少し痛くなっていて、ずいぶん低いところから眺めていたのだと気づいた。

るなさんが奥からカップを運んできたので、わたしは布巾を畳んでから、空いている場所を指した。「ここに、雨のあとだけ来るはずのものがあるよ」。るなさんは水差しを見て、それからカウンターに視線を落とした。「今日は、雨より先に来たんだね」。そう言って、カップの置き場所を少しずらしてくれたよ。天井の星屑ライトが灯ると、虹はさっきより見つけにくくなった。それでも、赤い端だけは石目の上に残っていた。わたしは目印を置こうとして、やめた。お水を注ぐたびに動くものへ、ここにいてねと頼むのは、少し難しいかもしれないね。いつもの位置へ戻した布巾の白さが、暗いカウンターの上で妙にはっきり見えた。

最初にその席へ座った君は、まどろみショコラを頼んで、小さな無地の手帳を開いた。何かを書きかけるたび、鉛筆が紙の少し上で止まっていたね。注文のカップを置くとき、虹の上へ受け皿の影が重なったので、わたしはつい手を止めてしまった。「置きにくいですか」と君が尋ねたから、席の不具合ではないことを伝えて、受け皿をほんの少し手前に動かした。「こっちから見ると、色があるんだよ」。君は背筋を伸ばしたまま探して、それからわたしの視線を追って、ゆっくり頬を低くした。カップの湯気が二人の間を通り抜けたあと、小さく「あ」と聞こえた。その声で、ようやくわたしもカップから手を離せたんだ。

君に言われて、白いコースターを虹の下へ滑らせてみた。石目の上では一緒に見えていた色が、紙の上だと少しずつ離れて見えたよ。緑は思ったより細く、赤は端へ行くほど薄くなっていた。「もっと大きくなるかな」。わたしも気になって、水差しを指一本ぶんだけ動かした。すると虹は広がるどころか、すっと消えてしまった。戻したつもりでも、元の場所が分からない。右へ、左へ、と持ち上げずにずらしているうちに、底についていた水が丸い跡を作ったよ。君は鉛筆を置いて、コースターを濡れない場所へ避けてくれた。わたしは急いで布巾を取りに戻った。見せたかったものを、わたしの手で隠してしまったようで、少し頬が熱くなった。

濡れた輪を拭き取る間、君はカップを両手で包んで待っていた。「見えなくしちゃったね」と言うと、「さっき見えたから、大丈夫です」と返ってきたよ。それでもわたしは、水差しと灯りの間を何度も見比べていた。明るいものを見つけると、そのまま誰かに渡せる気がしてしまう。今日は、きれいだったと言ってもらうところまで、勝手に続きを決めていたのかもしれないね。君のショコラでは、マシュマロの角がゆっくり丸くなっていた。わたしが虹の居場所ばかり気にしている間にも、飲みごろは進んでいたんだ。「温かいうちに、どうぞ」。ようやくそう言うと、君はうなずいて、一口飲んだ。上唇についた白い泡を拭う仕草が、なんだかとてもゆっくり見えたよ。

少し離れた席にお水を運んで戻ると、君は手帳に一本だけ線を引いていた。虹を描いているのかと思ったら、カップの取っ手だった。「見えたものを、ひとつだけ描いて帰ろうと思って」。その下には、途中で止まった丸がいくつかあった。わたしは上手な返事を探しかけて、やめて、今度は取っ手を見た。こちら側からだと細い月に見えるけれど、君の側から見ると、少し傾いた輪なのだろうね。「そこ、指を入れると隠れてしまうところだね」。君は自分の手と線を見比べて、ふっと笑った。描きたいものは近くにあるのに、眺める位置が決まらなかったのだと教えてくれたよ。紙の隅に転がった小さな消しゴムのかけらを、君は手のひらへ集めた。

お客さまの声が少し増えて、店の奥ではスプーンが受け皿に触れる音がした。藍色の壁を、水槽の淡い光がゆっくり撫でていたよ。クラゲが上へ向かうたび、ラベンダー色のエプロンに浮かぶ月の刺繍も、わずかに明るくなった。わたしは注文を運びながら、ときどき君の席を見た。鉛筆はまだ止まることがあったけれど、そのたびに君はカップへ目を戻していた。今度は何も描けない沈黙ではなく、形を確かめるための間に見えたんだ。もちろん、わたしがそう感じただけかもしれないね。ただ、さっきまできつく握られていた鉛筆が、指の間で小さく向きを変えられるようになっていた。それを見て、わたしの肩からも少し力が抜けたよ。

君がショコラを半分ほど飲んだころ、お水を注ぐために持ち上げた水差しの影から、また細い色が出てきた。今度はコースターではなく、カウンターの縁に近い場所だった。「あ、そこ」。先に気づいたのは君だったね。わたしは水差しを下ろして、手を離した。虹はさっきより短くて、青がほとんど見えなかったけれど、君は鉛筆を置いて眺めた。「捕まえようとすると、逃げるんですね」。わたしはうなずきかけてから、少し考えた。「わたしたちの立つ場所で、違って見えるのかもしれないね」。君が椅子の上で身体を少しずらすと、見えなかった青があると言った。わたしの側では、赤だけが明るかったよ。二人とも、相手に場所を譲ろうとして、同時に少し笑った。

帰る前に見せてもらった手帳には、取っ手の大きなカップが描かれていた。受け皿は少し斜めで、湯気は短い線が二本。その隣に、水差しの底と、細長い小さな帯があった。色鉛筆を持っていなかったから、虹も鉛筆の灰色だったよ。「何色だったか、あとで思い出せるかな」と君が言った。わたしには、君の側に見えた青の濃さは分からない。それでも、二人で身体を傾けたことや、濡れないように紙を避けてくれた手つきは覚えている。「絵を見たら、ここで動いたことまで思い出せそうだね」。そう答えると、君は手帳を閉じずにもう少し眺めて、それから丁寧に鞄へしまった。空になったカップの底に、ショコラの丸い跡が残っていた。

閉店後、洗い終えた水差しを伏せて、わたしは自分のブルーティーを淹れた。今夜の青は、カップの底に近いところほど深かったよ。手元灯の下へ置いてみたけれど、虹はできなかった。代わりに、取っ手の影が長く伸びたので、その先に指を置いてみた。動かすと影もついてきて、なんでもないことなのに、少し笑ってしまった。るなさんは隣でカップを拭いていて、わたしが笑ったほうを一度だけ見た。何があったのか尋ねずにいてくれる、その静けさも好きだと思ったよ。最後に灯りを消す前、水差しの乾きかけた底を確かめた。小さな泡はもうなかった。明日はまた、違う場所に色が落ちるかもしれないね。今夜のぶんは、君の鞄の中で、灰色の線になって揺れている。