ふふ、おかえりなさい。今夜は、開店して間もないころの小さなお話をさせてください。扉の向こうから冷たい風が一緒に入ってきて、カウンターに置いた紙の飾りが一枚だけ揺れました。わたしは星屑ライトを見上げ、いつもより少し早く夜が深まったように感じたんです。三日月型のカウンターには磨きたてのグラスが並び、クラゲ水槽の青がその縁をゆっくり渡っていました。まだ席に余裕がある時間の店は、声を出す前の楽器のように静かです。だからこそ、最初にいらした方の足音が、よく聞こえました。

その方は水槽の近くの席まで歩いて、椅子を引く前に少しだけ立ち止まりました。視線の先を追うと、いつもテーブルの真上で光っている小さな星のライトが、今日は消えていました。天井には星がいくつもあるのに、ひとつ欠けるだけで、その席の藍色が深く見えるものですね。「ここ、座ってもいいですか」と聞かれたので、「もちろんです。今夜の星は、少し休憩中みたいですね」とお答えしました。笑ってくださったけれど、いつもの席を選ぶか別の席にするか、まだ迷っているようでした。

すぐに明るい席をご案内することもできました。でも、その方の指は椅子の背にそっとかかったまま。好きな席には、明るさだけではない理由がありますよね。わたしにも、水槽のクラゲが折り重ならずに見える角度や、カウンターの曲線が月の端みたいに見える場所があります。「まずはここで、ゆっくりしてみませんか」と声をかけると、肩の力が少し抜けたように見えました。エプロンの月と星の刺繍が椅子のそばをかすめ、わたしはメニューを置いてから、水を一杯お持ちしました。

ご注文はルシッドカクテルでした。色の移ろうノンアルコールの一杯です。グラスを冷やし、底から順に注いでいくと、最初は淡い青だった液が、重なる色に押されて紫を帯びていきます。銀色のスプーンでそっと混ぜると、境目が一度だけ細い渦になりました。わたしはこういう瞬間が好きです。完成した色もきれいだけれど、途中にしかいない色があるから。水槽の前の方は、遠くからその手元を見ていました。こちらが顔を上げると、少し照れたように目を伏せて、テーブルの暗いところを指でなぞりました。

グラスをお持ちすると、「灯りがないと、色がわからないかもしれませんね」と小さな声。わたしも同じことを考えていました。そこで、カウンターに置いてある銀色の小さなトレーを一枚、グラスの下に敷いてみたんです。天井の別の星屑ライトがトレーの縁に映り、そこから淡い光が飲み物へ返りました。大げさな明るさではありません。氷が向きを変えるたび、グラスの内側に短い線が現れるくらい。それでも、その方は「見えました」と笑ってくださいました。わたしもつられて笑って、急に賑やかにしないよう、声だけは静かにしました。

トレーを置いた直後は、わたしの手の影が光を隠していました。少し身を引くと、銀の縁がふっと明るくなります。その方もグラスを右へ、また左へと動かして、いちばん色がよく見える場所を探しました。氷が一つ、薄い音を立ててぶつかりました。「ここですね」と指さした場所は、最初にわたしが選んだ場所よりほんの少し窓側でした。わたしは小さくうなずいて、トレーが滑らないように下の布を整えました。飲み物をお渡しするところまでがわたしの仕事だと思っていたけれど、その先の置き方は、その方が見つけてくださったんです。

「この席、前に来たときはもっと明るかった気がして」と、その方が言いました。わたしはトレーの位置を少し直しながら、うなずきました。「そうですね。ひとつ灯りが消えただけで、景色は変わりますね」。返事を急がずにいると、話は自然に続きました。外でも今日は予定が少しずつずれて、最後に楽しみにしていたことまで間に合わなかったそうです。詳しいことを聞く代わりに、わたしは水の減ったグラスへ静かに注ぎ足しました。ここで話しても、話さなくてもいい。そう思ってもらえる余白を、テーブルの上に残したかったんです。

注ぎ足した水の表面には、天井の星が細く伸びて映りました。その方はしばらくそれを眺めてから、「今日は急ぐことばかり考えていたのに」と言って、言葉の続きを探すように息をつきました。わたしは「ここでは、飲む速さも決めなくて大丈夫ですよ」とだけお伝えしました。グラスの外側にできた水滴を拭くための布をそっと横に置き、少し離れます。誰かの話を最後まで聞きたいときほど、先回りして答えを置かないようにしたいんです。カウンターへ戻ると、見慣れた席の藍色が、さっきより柔らかく見えました。

水槽では、白いクラゲが傘を開いては閉じ、青い奥へゆっくり沈んでいました。しずくちゃんが通りかかって、「今夜はこっちの壁に影が長いかもしれないね」と、誰にともなく言いました。見れば、クラゲの影が藍色の壁を淡く滑っています。わたしはその方にも目で知らせました。ふたりで同じ壁を見ているあいだ、厨房から焼きたてのパンの甘い香りが届きました。こむぎちゃんが次の皿を用意しているのでしょう。影は一度細くなり、また丸く戻りました。止まっているような店の時間にも、いくつもの動きがあるんですね。

「暗いと、見えなくなるものばかりだと思っていました」と、その方が言いました。わたしは少し考えてから、「見つけやすくなるものも、あるのかもしれません」とお返事しました。都合のいい慰めに聞こえないか気になって、続けてトレーを指さしました。「この光は、あの星の代わりにはなりません。でも、今夜はここにあります」。すると、その方はグラスを少し持ち上げ、トレーに揺れる色を見せてくれました。青と紫の境目に、ほんの薄い銀色が浮かんでいます。ふふ、こちらが教えていただいたみたいでした。

飲み終わるころ、あの席の上の星はまだ眠ったままでした。帰り際に「次に来たら、灯りは戻っていますか」と聞かれたので、「確かめておきますね。でも、もしまだ休んでいたら、また別の光を探しましょう」と約束しました。できないことまで約束したくはありません。ただ、同じ席に座ったとき、今夜のことを思い出せるようにしたかったんです。その方はトレーに指先で軽く触れてから、扉へ向かいました。冷たい風がまた一度だけ入り、今度は飾りの紙が揺れても、わたしは不思議と寂しくありませんでした。

閉店前、わたしはその席のトレーを洗い、乾いた布で縁の水滴を拭きました。ライトのことはるなさんに伝えて、明日確認できるようにしてあります。星をひとつ戻すのは大切なこと。けれど今夜わたしが持ち帰りたいのは、消えた場所をじっと見つめるだけで終わらなかった、あの小さな時間です。イヤリングの月と星が鏡の中で揺れ、わたしはエプロンの紐をほどきました。水槽のクラゲはまだゆっくり泳いでいます。あなたが帰り道で少し立ち止まる夜にも、そばの光をひとつ見つけられますように。ふふ、またおかえりなさいと言わせてくださいね。