今夜、開店前に磨いたグラスを並べていたら、ひとつだけ底に小さな紫が宿っていました。もちろん、飲み物はまだ入っていません。ラベンダー色の照明が、三日月型のカウンターを伝って映り込んでいたのです。少し持ち上げると紫は消えて、元の場所へ戻すとまた現れる。わたしはつい、同じことを三回もしてしまいました。るなさんが隣でコーヒーの用意をしながら、何も言わずに口元だけを緩めていましたよ。見られていたと気づくと、いくつになっても少し照れますね。グラスを置く位置を指一本ぶんずらしてから、わたしも小さく笑いました。そのときはまだ、今夜のお客様と、こんなふうに色を眺めることになるなんて思っていませんでした。
階段のほうで扉が開いたのは、星屑のライトを灯してしばらくした頃です。「ふふ、おかえりなさい」。お迎えすると、その方は胸の前で持っていた鞄を下ろして、ゆっくり店内を見渡しました。いつもの水槽のそばではなく、今夜はカウンターの端を選ばれたので、わたしはそちらへお水を運びました。メニューを開いた指が、ルシッドカクテルのところで止まります。「これ、色が変わるんでしたよね。今日は、その途中を見たいんです」。出来上がりの色を尋ねられることはあっても、途中を見たいと言われたのは久しぶりでした。わたしは注文を書き留める手を止めて、お客様と同じ高さになるよう少し身をかがめました。「ええ。急がずに作ってみましょうか」
まずは甘さのお好みを伺い、青いノンアルカクテルのベースを用意しました。氷を入れたグラスへ注ぐと、カウンターの銀色の縁が水の向こうで細く曲がります。いつもなら仕上げまで続けるところを、今夜はここで手を止めました。色を変える柑橘の果汁は、小さなガラスのピッチャーに分けて添えます。お客様が袖口を軽く整えて、グラスのほうへ身体を寄せました。その真剣なお顔につられて、わたしまで背筋が伸びてしまいます。「難しいことはありませんよ。気になったところで、止めてくださいね」。そうお伝えして、持ちやすい位置までピッチャーをそっと寄せました。口の細い器を選んでおいてよかった、と、このとき少し安心したのを覚えています。
最初のひとしずくは、氷の肩に当たりました。淡い色の果汁が表面をすべって、青の中へ細い筋を引きます。その周りだけが淡く紫になり、やがて下へ向かって柔らかくほどけていきました。「あ、待って」。お客様が小さく言って、ピッチャーを置きます。わたしも思わず息を止めていました。水槽ではクラゲが傘を縮めて、ふわりと上へ進んでいます。グラスの中の紫は、反対にゆっくり沈んでいく。その二つを交互に眺めるうちに、お客様の眉間に残っていた力が、ほんの少し抜けました。天井の光が氷の角で割れて、濡れたガラスに小さな点を作っています。わたしたちはしばらく、次のひとしずくを足すことも忘れていました。
「きれいですね。何色って言えばいいのかな」。聞かれて、わたしはすぐに答えを探しました。すみれ色、薄紫、夜明けの色。いくつか浮かんだのですけれど、どれを言っても、その間にグラスの様子が変わってしまうのです。「わたしも、ぴったりの名前が見つかりませんね」。そう答えると、お客様は嬉しそうに頷かれました。「よかった。今日は名前を考えなくていいものを見たかったのかもしれません」。詳しい理由は尋ねずに、わたしはピッチャーの下へ小さな受け皿を差し入れました。注ぎ口に残った果汁が、ひとつ落ちそうになっていたからです。何か気の利いた言葉を返そうとするより、今はこの一杯を落ち着いて眺められるようにしたいと思いました。
そこへ、片づけものを運んできたしずくちゃんが足を止めました。「氷の後ろ、まだ青いところがあるね」。その言葉に、お客様が少し首を傾けます。わたしも反対側から覗くと、確かに大きな氷の陰に、細い青が残っていました。正面からは見えなかった色です。しずくちゃんは水槽の光が映る側を指で示して、それから静かに仕事へ戻っていきました。お客様は椅子に座り直し、今度はグラスを動かさずに、ご自分の顔の位置を変えています。わたしが店の奥へ目を向けると、しずくちゃんと一瞬だけ目が合いました。よく見ている子ですね。お礼のつもりで頷くと、あの子もほんの少し頷き返してくれました。
やがてお客様は、残りの果汁を半分ほど足されました。さっきより太い紫が広がって、青との境目にいくつもの細い渦ができます。今度こそ混ぜるかしら、とわたしが長いスプーンを手元へ寄せると、「もう少し、このままで」と笑われました。「はい。スプーンも待っていてくれますよ」。そう返してから、自分が少し先回りしていたことに気づきました。お迎えする側でいると、次に必要なものを早く出せることが、良いことだと思いがちです。けれど今夜のお客様は、手順をひとつ進める前の時間も楽しんでいらっしゃる。わたしはスプーンを受け皿の脇に置いて、グラスを遮らない場所へ手を引きました。すると、カウンターの上が少し広くなったように見えました。
ほかのお席へお水を足して戻ると、お客様はまだ一杯を見ていました。ただ、先ほどまでの真剣な表情とは少し違います。頬杖をつきかけた手を下ろして、「さっきの形、もうなくなりましたね」と、穏やかな声で言われました。わたしが離れている間に、紫はグラスの底まで届いていました。「見ていない間にも、ちゃんと変わるんですね」。その言葉を聞いて、わたしは開店前の空のグラスを思い出しました。持ち上げるたびに消えた、照明の小さな紫。あれを見つけて喜んでいた自分のことをお話しすると、お客様が初めて声を立てて笑いました。「じゃあ、今日はお互いに、色を見つける日だったんですね」。ふふ、そう言っていただくと、少し得をした気分になります。
最後はお客様ご自身で、スプーンをゆっくり回されました。氷が触れ合う涼しい音がして、残っていた青も、薄い部分も、一杯の紫へまとまっていきます。十分に混ざったところで最初のひと口をどうぞ、とお勧めしました。グラスを傾けたあと、お客様は目を細めて、「見ていたときより、ずっとさっぱりしています」と仰いました。甘さもお好みに合ったようで、わたしはそこでようやく肩の力を抜きました。眺める時間がどんなに素敵でも、おいしく召し上がっていただいて、やっと一杯をお出しできた気がするのです。お客様が次のひと口へ進む間に、わたしは空になったピッチャーを下げました。小さな器の底には、照明を透かした透明な滴だけが残っていました。
お帰りになる前、お客様はコースターをそっと元の位置へ戻して、「今日は途中をたくさん見られました」と仰いました。わたしは、また違う色に会えるかもしれませんね、とお見送りしました。片づけのときに洗ったグラスを布で拭くと、もう青も紫も残っていません。それでも棚へ戻す前に、一度だけ灯りへ透かしてしまいました。カウンターの奥には、今夜は出番のなかったタロットの箱があります。その蓋を整えてから、わたしは明日のために小さなピッチャーを手前へ置きました。次も同じことが起こるとは限りませんけれど、お客様が何かを見つけたとき、一緒に立ち止まれるように。耳元の月と星が触れ合って、かすかな音がしました。まだ少し柑橘の香りがする指先で日記を閉じたら、今夜の紫にも、おやすみなさいを言おうと思います。
