開店前、洗い終えた小さなガラスのピッチャーを光にかざしたら、底に残っていた水滴がひとつ、持ち手のほうへ転がりました。今夜はこれに、ルシッドカクテルの色を変える果汁を入れてみようと思ったんです。いつもはわたしの手元で仕上げている一杯ですが、ご自分で色を動かせたら、それも楽しそうでしょう。三日月型のカウンターにグラスと並べてみると、背の低いピッチャーが大きなグラスを見上げているようでした。注ぎ口をもう一度拭きながら、思いつきを試せる静かな時間がうれしくて、つい鼻歌が出てしまいました。

最初にいらしたお客さまは、椅子に掛けた鞄の向きを二度直してから、メニューを開かれました。「ふふ、おかえりなさい。今夜は何色の気分ですか」。そうお声を掛けると、ページの端を押さえていた指が止まりました。「それが、今日は選ぶのにちょっと時間がかかりそうで」。わたしはお水を置き、グラスの正面に合わせてコースターを少し動かしました。「ええ、ご覧になっていてくださいね。わたしはここで準備をしていますから」。お返事のあとに残った間を、棚から器を下ろす音が埋めてくれました。しばらくして、メニューをめくる音が、一枚ぶんだけ聞こえました。

選ばれたのは、ちょうどルシッドカクテルでした。アルコールの入っていない、色の変化を楽しむ飲み物です。小さなピッチャーのことをお話しすると、お客さまは持ち手を覗き込んで、「自分でやってもいいんですか」と、さっきより少し大きな声で尋ねられました。「もちろん。最初はほんの少しずつがおすすめですよ」。そう言って説明用のグラスを引き寄せたところで、わたしはうっかり、注ぎ口を傾けすぎてしまいました。青い底へ透明な果汁が細く落ちるはずが、ぽとん、と丸いひとしずく。すみれ色が思ったより勢いよく広がって、二人で同時に目を丸くしました。

「お手本が、ちょっとせっかちでしたね」。わたしが笑うと、お客さまも口元を隠して笑ってくださいました。果汁は注ぎ口の縁に一度たまってから落ちるようです。少量を器に移して試し、ピッチャーを起こすタイミングを確かめました。持ち手の細さも、指に掛けて初めて分かるものですね。使いやすそうという見た目だけで選んだことを、少し反省しました。「一緒に練習していただけて、助かりました」。お客さまにそうお伝えして、今度はきれいなグラスで一杯を作ります。氷を静かに入れ直す間も、向こうではまだ、楽しそうな笑いの息が残っていました。

お客さまの前に置いたグラスは、水槽の明かりを受けて、底だけが淡く透けていました。ピッチャーの持ち手には人差し指を掛け、もう片方の手を下に添えていらっしゃいます。最初の一滴が落ちると、青の中に細いすみれ色の筋が立ちました。すぐ混ざってしまうかと思ったら、氷の角にぶつかって、ゆっくり横へ曲がっていくんです。「糸みたいですね」と言われて、わたしも少し屈みました。角度を変えると、その筋の端にだけ赤みが見えます。目の高さを揃えたまま、二人とも次の一滴を忘れてしまいました。氷が小さく動いたとき、色の糸はようやくほどけました。

「どこまで入れたら、できあがりですか」。ピッチャーを持ったままのお客さまに、わたしは味の変わり方をお話ししました。果汁が増えると酸味も少し強くなるので、途中でひと口、確かめていただくことにします。グラスを口元に運ばれてから、小さく頷かれるまで、わたしは布巾を畳んで待ちました。「今の、好きです。でも、もう少し色も見たい」。その迷い方がかわいらしくて、ふふ、と笑ってしまいます。ご希望を伺って、小さな試飲用のグラスへ少しだけ分けました。片方を残しておけば、続きを試したあとで、最初の色も眺められますから。

二つのグラスが並ぶと、カウンターの上に、ほんの短い夕暮れができました。大きなほうは青を残し、小さなほうにはすみれ色が深まっていきます。天井の星屑ライトがそれぞれの縁に映り、丸い光が氷の影を渡っていました。奥ではクラゲが傘をすぼめて、上へひとつ分だけ進んでいます。るなさんが通りがかって足を止めたので、わたしは二つのグラスを指さしました。「どちらがいいと思いますか」。るなさんは少し眺めて、「並んでいるのがいいんだよ」と。お客さまがすぐに頷かれて、わたしも言いかけていた説明を引っ込めました。たしかに、その眺めは一杯だけではできませんでしたね。

やがてお客さまは、ピッチャーをコースターの横に置かれました。「今日は、ここにします」。その声を聞いてから、わたしはカウンターの内側へ戻りました。止めるところまで見届けたい気持ちで、思ったより長く隣に立っていたようです。お水を足すと、お客さまは二つの色を交互に眺めながら、今日は朝から細かなことをたくさん決めていたのだと話してくださいました。わたしが相槌を打つ間に、グラスの外側を水滴が伝います。お話は途中で、好きな酸っぱさの話へ移っていきました。最後まで事情を聞かなくても、一緒に味見したひと口から、今夜のおしゃべりが続いていくのがうれしかったです。

席を立たれる前、お客さまは空いた二つのグラスをぴたりと並べて、「次は、最初からすみれ色の日かもしれません」とおっしゃいました。「そのときは、わたしも注ぎ方を上達させておきますね」。そうお返ししたら、「一滴、大きくても面白かったです」と笑ってくださったんです。扉が閉まってから片づけに戻ると、小さなピッチャーには果汁が少し残っていました。使い切るつもりで用意した量が、ちょうどよい量とは限らないのですね。グラスの置かれていた丸い跡を拭き、次は少なめに用意しようと、手元のメモに書きました。今夜の失敗が、明日の準備をひとつ具体的にしてくれました。

お店が落ち着いたころ、わたしも自分用に小さな一杯を作りました。さっき片づけておいたタロットの箱を棚から出しかけて、今夜はそのまま戻します。お客さまと見た色が、まだ頭の中に鮮やかに残っていたので。果汁を一滴、今度はゆっくり落とすと、青の奥にすみれ色がほどけていきました。思わず誰かに見せたくなって振り向くと、るなさんが片づけの途中でこちらを見ていました。わたしはグラスを少し持ち上げ、うまくいった、と口の形だけで伝えます。るなさんは頷いて、それから笑いました。ひとりで飲むつもりだった一杯にも、ちゃんと見ていてくれる人がいたんですね。

閉店の準備で灯りを減らすと、残りの飲み物はさっきより深い色に見えました。最後のひと口は氷が溶けたぶん、酸味がやわらいでいます。洗ったピッチャーを逆さに伏せ、明日はもう少し手前に置こうと、棚をひとつ空けました。小さな器を試して、失敗して、隣で色を眺めただけの夜です。それでも今、日記を書いている指を止めると、あの「ここにします」という声がすっと聞こえてきます。あしたお迎えする方は、どんな色を選ばれるのでしょう。ふふ、おかえりなさい。そのあとを急いで続けずに、お顔を見てからお話ししようと思います。今夜の二つのグラスを、わたしももう少し、心の中に並べておきますね。