開店前、三日月型のカウンターを端から端まで拭いていた。今夜はグラスの数を少し増やして、コースターの角もきちんとそろえた。店長代理の仕事には、誰かが気づかなくても済むように整えることが多い。深い藍色の壁に星屑ライトがともると、磨いた台の上だけが静かな水面みたいに明るくなる。水槽ではクラゲがいつもの速さで浮かんでいた。わたしはその遅さを横目で見ながら、開店までに片づけることを頭の中で数えていた。何も取りこぼしたくない夜だったんだよ。

最初のお客さんが階段を下りてきたとき、外の空気がドアの隙間から少しだけ入った。冷たい、というほどではないけれど、夏にはなかった薄い乾きがある。その人が上着を腕に掛け直すと、袖口から小さな葉が一枚、すべるように落ちた。床まで行くと思って手を伸ばしたら、葉はわたしの持っていた空のソーサーの上に着地した。危うく受け皿を鳴らすところだった。お客さんは目を丸くして、それから困ったように笑った。「連れてきちゃったみたいです」と言う声まで、階段の空気をまとっていた。

葉は黄土色で、先のほうだけ赤かった。縁が少し丸まり、細い葉脈が星屑ライトを受けて見える。わたしは乾いたナプキンをソーサーに敷き、その上へ葉を移した。飲み物を置く場所だから、まずはカウンターを拭こうとしたけれど、お客さんが「ごめんなさい、汚しましたか」と先に言った。見ると、濡れた跡も土もない。ただ小さな葉の形だけが、磨いた銀色の面に影をつくっていた。「大丈夫。今夜の忘れ物を、いったん預かっただけだよ」。そう返すと、その人の肩が少し下がった。わたしまで呼吸をゆっくりにした。

案内したのは水槽に近い席。そこからはクラゲの傘がゆっくり開くところと、天井の灯りが水面にほどけるところを一緒に見られる。お客さんは三日月ラテを選び、上着を椅子の背に掛けてから、ソーサーの葉を気にして振り向いた。「外にいたときは見えなかったのに」と言う。たぶん、誰かの袖に乗っている間は葉も景色の一部になれないのだろう。わたしは注文を通し、ミルクを温める間、その言葉を一度だけ思い返した。ここでは暗さのおかげで、小さいものがかえって見えることがある。

ミルクの泡を整えていると、カウンターの向こうでお客さんが椅子を引く音がした。ここは地下の店だから、外を走る車も風に揺れる木も見えない。代わりに、陶器が受け皿に触れる音や、誰かが息をつく音がよく届く。温めたミルクは急ぐと泡が粗くなるので、ピッチャーを一度止め、表面が落ち着くのを待った。たったそれだけの間に、さっきまで頭の中に並んでいた仕事の順番が、少しゆるんだ。

ラテを運ぶ前に、月の形が崩れていないか確かめた。白い弧がカップの真ん中で静かに浮いている。カウンターには葉を乗せたソーサーと飲み物のソーサーが並び、まるで席がひとつ増えたみたいだった。わたしが「こちらは持っていく?」と聞くと、お客さんは少し考えて、「もう少しここに置いてもいいですか」と言った。「いいよ。飲み物から離れた場所に置いておくね」。葉の皿をカウンターの内側へ寄せた。手の届かないところへしまうわけではなく、水槽の光が見えるところに置いた。そうすると、その人は安心してカップに向き直れた。

そのあと注文が重なり、わたしは席を回りながら、空いたグラスを下げたり、ストローの包みを拾ったりした。ラベンダーのエプロンに刺した小さなメモには、補充するものを短く書いてある。忙しさは急に増えたけれど、カウンターを通るたび、葉の皿が視界の端に入った。忘れないための目印というより、急ぐ速さを量るための目盛りみたいだった。クラゲは混み具合を知らないまま上がって、下がる。わたしも注文を間違えずに運べたし、笑顔を急いで作らずに済んだ。葉を拾うために手を止めた数秒が、まだ残っていたからだと思う。

グラスを置きに戻ったとき、換気の風で葉の端が一度だけ持ち上がった。皿の外へ飛びそうで、わたしは手のひらをそっとかざした。ひっくり返った裏側は表より淡く、細い筋がはっきり見えた。いつもなら風が当たらない棚へ移すところだけれど、今夜は空調の向きを少し変え、皿はそのままにした。席から見えなくなると、お客さんが預けたものの行き先を探すだろう。仕事を続けながらも見守れる場所が、カウンターにはちゃんとあった。

しばらくして水槽の席へ行くと、お客さんは空になったカップを両手で包んでいた。熱はもうないはずなのに、その形を確かめているように見えた。「さっきの葉、まだありますか」と尋ねられたので、皿ごと持っていった。お客さんは触れずに眺め、「今日は早く帰ることばかり考えていて、袖に何かついているのも知らなかった」と話した。わたしは理由を聞かなかった。急いでいた日について、初めて会った相手に説明しなくてもいい。「ここに着いたら、少し止まれたんだね」とだけ言うと、その人はうなずいた。水槽の淡い青が、その横顔をほんの少しやわらかくした。

葉を持ち帰りたいか聞いたら、「ここに置いていくと、明日には片づけますよね」と返ってきた。当たり前のことだけど、わたしはすぐに答えられなかった。店では毎晩、テーブルを拭き、カップを洗い、次の夜を迎える準備をする。今日の跡を全部残していたら、誰かが安心して座れる場所がなくなる。「そうだよ。だから、今夜見た形だけ持って帰るのもいい」。ナプキンの端を折って葉を包むと、かさり、と小さな音がした。お客さんはその音を聞いて、ようやく受け取った。わたしも少し笑った。しまうのが惜しいものほど、ちゃんと帰る場所があるのかもしれない。

お見送りのあと、カウンターに残ったのは空のソーサーだけだった。置いてあった場所を拭くと、布に葉の色はつかない。最初から何もなかったようで、でもわたしには、あの丸まった縁の向きまで思い出せた。補充のメモを確認し、グラスを元の列に戻す。開店前にそろえたコースターは一枚だけ斜めになっていたので、指で直した。すべてを整える仕事は、今も好きだよ。ただ、誰かが持ち込んだ小さな偶然まで、急いで消さなくてもいいのだと思った。磨いた面にはまた星屑ライトが映り、今度はその光が少し近く感じられた。

閉店後、ブラックコーヒーを一口飲んだ。少し冷めていたけれど、苦みの奥に温かさが残っていた。水槽のクラゲは、今夜も誰の予定にも合わせず漂っている。外にはきっと、袖に気づかれないまま運ばれるものがまだたくさんある。ここへ来たら、まず上着を脱いで、息をついてほしい。葉でも、言いそびれたひと言でも、受け取れるものなら一度ソーサーを出すよ。明日のカウンターも拭くし、必要ならまた静かに片づける。それでも、今夜あの人が葉を包む音を聞いたときの顔は、しばらく忘れないと思う。