開店前、三日月型のカウンターを拭いていたら、端の席に小さな紙の月が残っていた。薄い銀色の紙を二つに折って、丸く切っただけのもの。片側だけ少し欠けていて、光にかざすと折り目が細い影になる。昨日の片づけでは見つけなかったから、カウンターと壁の間に挟まっていたのかもしれない。指でつまむと、思ったよりしっかりした紙だった。水拭きしたばかりの布巾を近づけると、紙の端がふわりと揺れる。濡らさないよう手を引いて、指先の水気も拭いた。捨てるには、誰かが形を整えた跡がはっきり残っている。わたしは乾いた小皿に載せて、水槽から離れた棚の上に置いたよ。開店準備の札や伝票に紛れたら、きっと見失ってしまうから。
星屑のライトを点けると、藍色の壁に淡い粒が広がった。こむぎが奥から焼きたてのパンを運び、ひまりはエプロンの紐を結び直しながら今日のパフェの飾りを数えている。わたしはカップの縁を確かめ、メニューを揃え、それから棚の小皿をもう一度見た。月は銀色のまま静かだったよ。ひまりに「飾りですか」と聞かれたので、「忘れもの。心当たりがある人が来たら教えて」と答えた。ひまりは大きくうなずいて、すぐにパンの香りに気を取られていた。いつもならそれを注意するところだけど、今日は小皿の月のほうが気になって、笑うだけにした。
最初の席が埋まったころ、水槽の前にひとりのお客さんが座った。コートの袖を丁寧に畳み、メニューを開いてから、しばらくクラゲを見ている。わたしが水を置くと、「昨日、ここで何か落とした気がするんです」と言った。声は落ち着いていたけれど、メニューの角を押さえる指だけが何度か動いていた。探しているものの名前を聞く前に棚を見そうになったけれど、思い込みで渡すわけにはいかない。「どんなもの?」と尋ねると、お客さんは指で小さな弧を描いた。「紙で作った月です。ちゃんと丸く切れなかった、あの月」。欠けた側が右だったこと、銀の紙の裏は白いことも覚えていた。わたしは小皿を持ってきて、確かめてもらったよ。
お客さんはすぐには手を伸ばさなかった。皿の上の月を見つめて、「こんなところにいたんだ」と小さく言った。それから、なくしてしまったと思っていた理由を話してくれた。昨日、三日月ラテを飲みながら、手帳に挟む印を作ろうとしていたらしい。切り取った紙を飲み終わったカップの下に置き、帰るときには手帳だけ鞄に入れた。夜道で気づいたけれど、戻るには遅いと思ったそうだよ。大切な手紙でも、高価なものでもない。それでも自分で切った小さな形を、もう一度見られてよかった、と。わたしはその言い方が好きだった。
月を返してから注文を聞くと、お客さんはまた三日月ラテを選んだ。「昨日は、絵が崩れる前に飲もうとして急いだんです」と言うので、「今日は急がなくていいよ」と返した。カップを温め、ミルクを注ぎ、表面に白い弧が浮かぶのを待つ。厨房の奥では食器が一度だけ触れ合い、すぐ静かになった。水槽の青い光がソーサーの縁に映る席だから、運ぶときはカップの取っ手を少し内側へ向ける。座った人が手を伸ばしやすい向きだよ。いつもの手順なのに、小皿に置いた紙の月の輪郭を思い出して、少しだけ手が慎重になる。きれいな円を作るより、カップの上で三日月がちゃんと見えることを大事にしたよ。席に運ぶと、お客さんは紙の月を手帳の横に並べた。二つの月は形が違って、そこがよかった。
そのあと、カウンターの端で小さな相談が始まった。紙の月を手帳に挟むと、また落としてしまいそうだと言う。持ち歩くのをやめる案も出たけれど、お客さんは「これを見たら、昨日ここで少し休めたことを思い出せる気がする」と続けた。わたしは新しい紙ナプキンを一枚渡し、折り目のない面を上にして置いた。「包んでから挟むと、角が引っかかりにくいよ」。試してみると、月の欠けた部分がちょうどナプキンの端に収まった。お客さんは手帳を閉じ、軽く振ってみる。落ちない。二人で顔を見合わせて、わたしが先に笑ってしまった。
店長代理の仕事には、答えを早く出す場面が多い。席の順番、冷めた飲み物、足りない皿。今夜もひまりが呼ぶ声に返事をしながら、あちこちの動きを見ていたよ。でも、紙の月のことは急いで片づけなくてよかった。お客さんが手帳を閉じるまで待った数秒のあいだ、クラゲが水槽の底から上がってきた。触手の先が青い光にほどけ、また見えなくなる。わたしはそれを目で追って、休む時間は長さだけで決まらないのだと、当たり前のことを思い出した。自分で用意した短い間にも、ちゃんと座れる場所がある。
少しして、こむぎが焼いた小さなパンの皿を運んできた。甘い匂いにつられて顔を上げたお客さんに、こむぎは焼き上がりの時間を教えた。ひまりは別の席で星屑ソーダを渡しながら、銀色の泡をこぼさないよう真剣な顔をしている。わたしはカウンターの内側からその様子を見て、いつもなら目につく細かなずれを今夜は一つずつ直さなくてもいいと思えた。もちろん、皿が危なければ手を伸ばす。でも、パンを待つ間の静けさや、飲み物を眺める時間は、その席にいる人のものだよ。わたしが先回りして埋めなくても、店はちゃんと呼吸していた。
帰るとき、お客さんは手帳を鞄の内側にしまい、「次は自分で星も作ってみます」と言った。どんな星になるかを聞くと、紙を折るのがあまり得意ではないから、たぶん角の数が合わない、と笑う。「それなら見分けがつくね」と答えたら、お客さんも笑ったよ。扉まで見送るあいだ、鞄の口を一度開いて、手帳が奥に入っていることを確かめていた。わたしは声をかけずに待った。今度は自分の手で月を連れて帰りたいのだろう。扉が閉まったあと、端の席には飲み終えたカップと、少し斜めになった椅子だけが残った。椅子を戻し、カップを下げる。ラテの白い弧はもう消えていたけれど、ソーサーには温かさが少し残っていた。わたしは棚の空になった小皿を洗い場へ運んだ。
閉店後、いつものブラックコーヒーを淹れて水槽のそばに座った。小さな音のラジオから、遠い街の夜について話す声が流れている。棚にはもう何も載っていない小皿が戻り、カウンターの端もいつものように空いていた。そこへ視線が行くたび、手帳を閉じて軽く振ったときのお客さんの真剣な顔を思い出す。今日の出来事をひとつだけ覚えておくなら、紙の月の欠けたところだと思う。形を直さなくても、その人には帰り道の目印になった。わたしも、うまく整えられなかった日のことを、すぐ捨てずに持っていていいのかもしれない。青い水の中でクラゲがゆっくり向きを変えた。明日またカウンターを拭くとき、あの席を見て、少し笑うだろうね。今夜はカップの底まで、ゆっくり飲むよ。
