開店前、洗い終えたスプーンを拭いていたら、藍色の壁に白いものが走った。水槽のクラゲが映ったのかと思って振り向いたけれど、あの子たちはいつもどおり、青い水の中でゆっくり傘を開いていたよ。わたしが布を動かすと、壁の白いものも動く。正体は、磨いたばかりの匙が返した光だった。カウンターの端に置いた小さな灯りを、ちょうどいい角度で拾っていたらしい。手首を戻すと、細長い光がもう一度現れた。普段なら汚れが残っていないかを見るだけの道具なのに、今夜は少し違う顔をしていた。気になったけれど、入口の灯りをつける時間だったので、最後の一本も引き出しへしまった。

最初に階段を下りてきたお客さまは、三日月型のカウンターの、壁に近い席を選んだ。まどろみショコラを待つ間、膝の上に置いた鞄の持ち手を両手で揃えていたよ。わたしが追加のスプーンを拭き始めたとき、その人の目がふっと上がった。「いま、何か泳ぎました?」と聞かれて、ああ、また出たんだと思った。「これだよ」と匙を持ち上げたら、光は壁ではなく、わたしのエプロンへ落ちた。月と星の刺繍の隙間に、白い豆のような形が一つ。見せたい場所にあるときは誰も見ていなくて、見せようとすると急に逃げる。わたしが黙って持ち直すと、お客さまは口元を緩めて、豆も泳ぐんですね、と言った。

まどろみショコラには、丸いマシュマロを浮かべた。表面にふわりと薄い膜ができる前に運ぶと、甘い湯気が灯りの下を通っていったよ。お客さまはカップを両手で囲み、まず香りを確かめてから、小さく一口飲んだ。その間にわたしは手元の布を畳み、予備の匙を一本だけ残した。「さっきは、もう少し魚みたいだったんだよ」と言うと、「見ていない間に上手に泳ぐ魚なんですね」と返ってきた。ずいぶん都合のいい魚になってしまった。否定するために手首をひねったら、今度はカウンターに光がつぶれて、お客さまがまた笑った。わたしまで笑うと手がぶれそうで、少しだけ口を結んでいた。

灯りと匙と壁を順番に見る。位置を覚えれば簡単なはずなのに、指先をほんの少し動かしただけで、光は遠くへ行ってしまう。匙の丸い背で返した光は広がり、内側を向けると、細くなったり二つに分かれたりした。お客さまはショコラを飲みながら、今度は上、少し左、と小声で案内してくれたよ。言われた方向と逆へ動かしてしまうたび、二人とも一拍黙る。その沈黙がおかしくて、とうとうわたしも笑った。「店長代理でも、光の案内は担当外だよ」。言い訳をすると、お客さまは真面目な顔で頷いた。それから、自分も今日は地図の向きを何度も間違えたのだと教えてくれた。

その話を聞いていたみおんが、カウンターの向こうから小さな灯りを少し寄せてくれた。カップや伝票の邪魔にならない場所で止めて、首の角度だけを変える。わたしが匙を動かすと、今度は壁の低いところに淡い楕円が現れた。「そこなら、座ったままでも見えるでしょう」とみおん。わたしが礼を言う前に、彼女は使い終えたお盆を持って戻っていった。こういうとき、あの人は答えを全部持っていかない。わたしは肘をカウンターの内側につき、手の震えを小さくした。光は壁の継ぎ目を越えて、ゆっくり横へ進んだよ。天井の星屑ライトとは違って、ちょっと頼りない明るさだったけれど、今はそれが見やすかった。

お客さまにも試してもらおうと、別の清潔なスプーンを渡した。飲み物の匙と混ざらないよう、小皿を一枚添えておく。その人は柄を鉛筆のように持ち、灯りを眩しがらない角度で、壁へ向けて少しずつ傾けた。最初の光は、わたしのものよりずっと丸かったよ。「満月になった」と嬉しそうに言うので、「それが本物だったら、今夜はお休みになっちゃうね」と返した。お客さまが慌てて角度を変えると、丸い光は細い弧になった。休業は取り消し。二人でそんな話をしている間、水槽から淡い青が届いて、壁の白い弧の下を揺れていた。クラゲの影と重なった一瞬だけ、光のほうにも長い足が生えたように見えた。

入口の音がして、わたしは匙を小皿へ戻した。席を案内し、水を運び、注文を確かめる。星屑ソーダのグラスに氷を入れると、急に店のいつもの音が近くなったよ。さっきまで壁の数センチを気にしていた手で、今度はお盆の重さを確かめている。カウンターへ戻ると、最初のお客さまも匙を置いて、柔らかくなったマシュマロを飲み物の中へ沈めていた。遊びに誘ったせいで冷めたかと気になったけれど、尋ねると、今がちょうど飲みやすいと言ってくれた。それでも次からは、温かいうちにどうぞと先に伝えよう。楽しかったことと、気をつけることは、別々に覚えておけるからね。

しばらくしてお皿を下げに行くと、お客さまは白い光が出ていた壁を、もう一度眺めていた。「今日はずっと、急いでいるものばかり見ていた気がします」。それは仕事の話かもしれないし、階段を下りる前の道の話かもしれない。わたしは続きを尋ねず、空いたカップをお盆の中央へ置いた。「うちの魚は、なかなか進まなかったね」とだけ言うと、その人は、そこがよかったです、と答えた。帰り支度をしながら、自分の家のスプーンでもできるだろうかと聞かれたよ。「灯りの位置が合えば、たぶん。できなくても、匙のせいとは限らないよ」。自分に向けた助言みたいになって、最後は少し声が甘くなった。

お客さまが帰ったあと、借りてもらったスプーンを洗った。水を切ると、丸い背に細かな雫が残り、一つずつ拭くたびに形が消えた。光で遊んだ道具も、戻す前にはいつもと同じ手順を通る。その手触りが、今夜は妙に心地よかったよ。閉店してから自分のブラックコーヒーを淹れ、カウンターの端で一口飲んだ。さっきの甘い湯気とは違う、少し焦げたような香りが上がる。みおんが灯りを元の位置へ戻そうとして、わたしの手元を見て止まった。そこに一本だけ、乾いた匙を残していたから。「あと一回だよ」と言ったら、何も聞いていないのに、と笑われた。もちろん、わたしもわかっていた。

最後の一回は、壁の低いところから始めた。光は短く伸びて、少し丸くなって、それからすっと消えたよ。もう一度出すこともできたけれど、今夜はそこで匙を置いた。成功した形を残して終わらなくても、あの人が笑ったところは、ちゃんと覚えている。飲みかけのコーヒーを持ち上げると、カップの影が光のいた場所へ重なった。明日は同じ角度にならないかもしれない。灯りの位置も、誰かが選ぶ席も、わたしの手首も、少しずつ違う。それでも、洗った匙を拭くときには、たまに壁を見てみようと思う。君が何か泳いだと言ったら、すぐに見間違いとは決めないよ。布を置いて、一緒にそちらを向くくらいの時間はあるから。