三日月型のカウンターの端で、鉛筆がずっと宙に浮いていた。今夜、最初に気になったのはそれだったよ。持ち主のお客さんは、水槽を見て、手元の小さなカードを見て、また水槽に顔を向ける。星屑ソーダの泡だけが、そのあいだにも休まず上っていた。わたしは洗ったグラスを棚に戻しながら、なるべく紙をのぞかないようにしていたんだけど、鉛筆が一度も下りないので、少し心配になった。室温が低いのかと思って声をかけたら、その人は首を振って、ようやく先端を紙につけた。でも、できたのは短い横線だけ。すぐ消しゴムでこすってしまったから、クリーム色の紙には、何もなかったことにしきれない薄い跡が残った。
「あのクラゲを描きたいんです」と、カードを隠すように手のひらを置かれた。絵を習っているわけではなく、出かけた先で目に留まったものを、一枚ずつ残しているらしい。今日は丸い傘の形が気に入ったのに、見直すたびに縮んだり広がったりして、どの形だったかわからなくなるのだそう。「止まってくれないから困る」と言う声があまりにも真剣で、わたしは口元を指で押さえた。「それは、モデルのほうに相談しないといけないね。わたしから言っても、たぶん聞いてくれないよ」。お客さんが水槽へ小さく会釈をしたので、とうとう笑ってしまった。青い水の向こうでは、相談相手が背中を見せるみたいに、ゆっくりひっくり返っていた。
席から水槽を見ると、天井のライトが一粒、ちょうどクラゲと重なっていた。わたしはお客さんに断ってから、手元の小さなランプの向きを変えた。紙の上は明るいまま、ガラスに映る光だけが端へ逃げていく。椅子もほんの少し動かしてもらうと、傘のふちが、さっきより細く見えた。「ここなら、少し見やすいよ」。言ってから気づいたけど、わたしは毎晩この水槽を見ているくせに、この高さで眺めたことがほとんどなかった。立っているときには一緒に見えていた二匹が、椅子の背に手を置いてかがむと、奥と手前に離れた。カウンターの冷たい銀色のふちにも、細長い青が映っている。いつもの通り道に、知らない席がひとつあった。
見やすくなっても、クラゲは待ってくれなかった。お客さんは傘を丸く描き始めて、途中で鉛筆を止める。水槽の中ではもう、目当ての一匹が細い形になっていた。「いっそ、るなさんも描きませんか」。急にこちらへ順番が回ってきて、わたしは拭いていた手を止めた。店長代理の仕事に絵の腕は含まれていない、と言おうとしたけど、用意されたもう一枚のカードがきれいで、断る言葉のほうが大げさに思えた。注文が落ち着いているのを確かめて、空いた椅子に腰を下ろす。渡された予備の鉛筆は、よく削ってあった。「上手には描けないよ。それでもよければ」。そう言って先に逃げ道を作ったのに、白い場所へ最初の線を引くときは、少し背筋が伸びた。
わたしの一匹目は、どう見ても傘だった。水の中を泳ぐほうではなく、雨の日にさすほう。下に細い線を足せば違って見えるはずだったのに、今度は風にあおられた傘になった。お客さんが唇を結んでいるので、「笑っていいよ」と先に言っておいた。すると、遠慮がちな笑いがカウンターの内側まで届いて、わたしも鉛筆を置いた。こんなに毎日見ているのに、紙へ移そうとすると、覚えている部分が驚くほど少ない。傘の下はどこから透けて、細い腕はどんなふうにつながっていたんだろう。わたしはいつのまにか、閉店前に水槽を確かめるときよりずっと長く、同じ一匹を追っていた。髪が肩から落ちて紙に触れそうになり、空いた手で耳の後ろへ戻した。
新しい注文が入って、いったん席を離れた。三日月ラテを運ぶときも、さっきの頼りない線が頭に残っていたよ。丸いカップの持ち手なら、目を閉じても形が浮かぶ。ところが、すぐそばにいるクラゲの腕は思い出せない。そんな違いがおかしくて、空いたトレーを抱えたまま水槽を見た。藍色の壁に返る水明かりが、エプロンの月と星の刺繍を淡く照らしていた。お客さんは今度、紙ではなく、クラゲが通り過ぎた場所を見ているようだった。わたしが戻ると、「同じところを回ってるんですね」と教えてくれた。よく見ると、一匹は水槽の奥をゆっくり下り、底の近くで向きを変えていた。次に上ってくる場所へ目を置いて待つと、輪郭を追いかけなくても、向こうから姿を見せてくれた。
休憩に入って、自分のブラックコーヒーを紙から離れた場所に置いた。湯気の向こうで、お客さんがまた消しゴムに手を伸ばす。わたしも自分の傘を消そうとしていたけど、二人で同じことをしているのに気づいて、先に手を引っ込めた。「このまま、もう一匹描いてみるよ。次に来る子は、もう少し丸いから」。カードの右上に小さく描くと、最初の一匹とのあいだに、広い空きができた。そこを埋めたくなって鉛筆を動かしかけたとき、水槽の中の二匹も、ちょうど離れた。片方が上へ行くまで、もう片方はゆらゆらと下にいる。わたしは何も足さずに、コーヒーをひと口飲んだ。紙に近づけすぎていた顔を上げると、ひとつ目の傘も、さっきほど気にならなくなっていた。
お客さんの鉛筆が、今度は止まらずに動いた。きれいな半円というより、片側が少し高い、やわらかな山のような形。その下に細い線が三本のびて、一本だけ途中でふっと薄くなる。描き終わってからも消しゴムを使わず、カードを腕いっぱい離して眺めていた。「これ、さっき奥にいた子みたいだよ」とわたしが言うと、「そう見えますか」と声が少し高くなった。わたしのカードには、最後に小さな泡を二つだけ足した。傘のような一匹は直さなかった。「そっちは、急いでどこかに行く途中みたいですね」。そう言われて見ると、確かに片方へ傾いた線には妙な勢いがあった。上手と言われるより、その行き先を想像してもらえたことのほうが、なんだか照れくさかったよ。
帰る前、お客さんはカードを二枚並べてもいいかと聞いた。わたしの一枚を隣へ置くと、同じ水槽を見たはずなのに、泳いでいる場所がまるで違っていた。向こうの一匹は広い紙の真ん中で静かに浮き、こちらの二匹は、少し窮屈そうに端へ寄っている。水槽を背景にしばらく眺めてから、お客さんは自分のカードだけを小さな紙ばさみに収めた。「次は、もう少し長く見てから描きます」。「うん。あの子たち、たぶん次も同じところにいるよ」。階段へ続く扉が閉まったあと、ソーダのグラスを下げると、下から消しゴムのかけらがひとつ出てきた。それを集めて捨て、ランプを元の向きへ戻す。いつものカウンターなのに、水槽を見るたび、さっきの椅子の高さを思い出した。
閉店後、片づけたカウンターで、自分のカードをもう一度見ている。冷めたブラックコーヒーは、口に含むと少し酸味が目立った。小さくつけたラジオから、誰かの穏やかな話し声が流れている。絵を見返すと、最初の線だけ少し濃い。うまく描こうとして、力が入っていたんだね。カードは裏の休憩場所へ持っていって、棚に立てておくことにした。表のきれいな景色に混ぜるには、まだちょっと勇気がいるから。消灯の前に水槽の横を通ると、細くなった一匹が奥へ流れていった。明日また描いたら、今日は見えなかった形になるのかな。今度は最初から、小さな紙を一枚持ってこようと思う。傘になってしまっても、君には見せてあげるよ。笑うなら、コーヒーを飲み込んでからにしてね。
