今日、開店前に銀色のコースターを拭いていたら、一枚だけ指にくっついて離れなかったのです。洗い上がりの水が縁に残っていたのでした。布でぬぐうと、布のほうには小さな丸い跡ができました。乾けば消えると分かっているのに、こむぎはその丸をしばらく眺めてしまったのです。厨房では羊が一匹トースト用のパンが焼けるところで、香ばしい匂いが細い通路を伝ってきました。冷たいものを置くためのコースターと、熱いうちに運びたいパン。今日はこの二つを同じお盆に乗せることになるなんて、そのときはまだ思っていなかったのです。

扉が開いて最初に聞こえたのは、靴音よりも布がこすれる音でした。お客さまは腕に薄い上着をたたんで抱え、三日月型のカウンターの水槽寄りに座ったのです。星屑ライトの下では、上着の折り目が銀色の糸みたいに見えました。「冷たいものと温かいものを、一緒に頼んでもいいですか」と聞かれたので、こむぎは星屑ソーダと羊が一匹トーストをご案内しました。「それ、ちょうど欲しかった組み合わせです」。うれしくて、こむぎは自分の羊耳カチューシャに触れそうになりましたが、まず注文を確かめたのです。飲み物を先に、パンは焼きたてでお持ちすると伝えると、お客さまは上着を膝の上に置き直しました。

ソーダを注ぐあいだ、青い液の中を銀色の光が細く上がっていきました。泡は急いでいるように見えるのに、グラスの外側にはゆっくり雫が集まります。こむぎは先ほど拭いたコースターを選び、底がきちんと乾いていることを指で確かめました。席へ運ぶ途中、水槽のクラゲがふわりと浮くのが見えたのです。あの子たちは、上へ行くときも慌てた顔をしないのですね。お客さまはグラスを受け取ると、すぐには飲まず、光が泡の間を通り抜けるところを見ていました。こむぎもつい立ち止まりかけましたが、パンを焼く約束を思い出して厨房へ戻ったのです。

トーストの表面に焼き色がつくまで、こむぎはオーブンの前で待ちました。焼きたての匂いが届くころ、客席からコースターを動かす小さな音が聞こえたのです。目を向けると、お客さまはグラスを少しだけ奥へ寄せ、膝の上の上着が濡れない位置を探していました。雫がテーブルを伝ったわけではありません。ただ、グラスの縁から落ちそうな一滴が、光の中でずっと揺れていたのです。こむぎはパンのタイマーを確かめ、先に乾いた布を一枚持っていきました。「お席、少し整えるのです」と声をかけると、お客さまは「気を使わせちゃいましたね」と笑いました。「こむぎが気になっただけなのです」と答えて、上着から遠い側へコースターを移したのです。

そのとき、お客さまが「わたしも、さっきからこの一滴が気になっていました」と言いました。雫はグラスの外側を短く滑り、コースターの上で止まりました。二人でそれを見ていたら、なんだか大きな出来事を待っていたみたいで、こむぎは笑ってしまったのです。お客さまも笑って、「今日は小さなことばかり目につく日です」と言いました。カウンターの向こうでは、ひまりちゃんが星型のチョコを並べています。いつもなら明るい声が先に届くのに、今はお皿に触れる軽い音だけが聞こえました。店の音が小さくなったのではなく、こむぎの耳が一滴に近づいていたのかもしれません。

厨房へ戻ると、タイマーがちょうど鳴ったのです。パンの縁は薄くきつね色で、切ったところから温かい息のような湯気が立っていました。こむぎは焦らず皿を温め、羊の形を崩さないようにパンを移しました。はちみつは小さな器へ入れ、かける速さをお客さまに選んでもらうことにしたのです。ひまりちゃんが「いい匂いなんだもんっ」と鼻を寄せたので、「一口目はお客さまの分なのです」と小声で言いました。ひまりちゃんは頬をふくらませたあと、皿の向きをそっと直してくれました。羊の顔が、席へ運ぶこむぎの方を向いたのです。笑いそうになってもお盆は水平に、両手で持ったのですよ。

お皿を置くと、温かいパンと冷たいソーダの間に、こむぎの手の幅ほどの空間ができました。「これなら上着も大丈夫なのです」と言うと、お客さまは膝の上を見て、ほっとした顔をしました。最初の一口は、はちみつをかけないまま食べたのです。ぱりっとした音のあとに、柔らかい中身を噛む静かな時間がありました。それからソーダを一口。お客さまは「順番を決めなくていいのが、なんだかいいですね」と言いました。こむぎは、温かいものが冷める前に食べてほしいとばかり考えていました。でも、その人は冷たいものにもちゃんと手を伸ばし、どちらの味も自分の速さで行き来していたのです。

水を足しに近づいたとき、お客さまは小さな器からはちみつを一筋だけパンへ落としました。光を受けた線が焼き目のくぼみに沿って進み、途中で消えます。「今度は少し甘くなりました」と教えてくれたので、こむぎは「パンもびっくりしているのです」と答えました。自分で言ってから少し照れたのですが、お客さまは笑いながら、羊の背中を小さくちぎりました。水槽の青い光が、グラス越しにお皿の縁へ届いています。温度の違う二つを並べても、どちらかが邪魔になるわけではないのですね。こむぎの中でも、早く運ばなきゃという気持ちと、ゆっくり見ていたい気持ちが、けんかをやめたようでした。

帰り際、お客さまは上着を腕にかけて、「さっきの一滴、結局ちゃんと受け止められましたね」とコースターを指しました。そこには細い水の輪が残っていました。こむぎが布を取ろうとすると、「もう少しだけ、見ていてもいいですか」と言うのです。輪の中には星屑ライトがひとつ映り、クラゲが動くたび形がわずかに変わりました。やがて光の縁だけが残って、水は見えなくなったのです。「消えるところまで見られた」とお客さまはうなずきました。こむぎは特別な言葉を探さず、「また焼きたてを用意するのです」とお見送りしました。階段へ向かう足音は、入ってきたときより少し軽く聞こえたのです。

片づけのとき、乾いたコースターには何の跡もありませんでした。布で磨いて棚へ戻すと、隣の一枚と見分けがつかなくなります。それでも、あの席で冷たい雫を受け止めていた時間は、ちゃんとあったのです。残ったパンの端を厨房でひと口食べると、もう熱くはないけれど、噛むほどに小麦の甘さが出てきました。ひまりちゃんにも半分渡したら、「これは今が食べどきなんだもんっ」と笑ったのです。こむぎもそう思いました。焼きたてには焼きたてのよさがあって、少し落ち着いたパンには別のよさがあるのです。眠る前には、冷たいグラスの横に置いた温かいお皿を思い出す気がします。小さな雫が落ちるまで待てた今日のこむぎは、いつもより少しだけ、ゆっくり夢の底へ行けそうなのです。