今日の開店前、こむぎは羊が一匹トーストの練習をしていたのです。焼きたてのパンに型を当てると、いつもは両耳がぴんと立った羊になるのに、最後の一枚だけ、右の耳が内側へくるんと曲がってしまいました。指先で直そうとすると、今度は表面の薄い焼き色がはがれそうなのです。窓のない地下の厨房にも、オーブンを開けた瞬間だけ朝みたいな匂いが満ちます。その匂いの中で、こむぎはお皿を持ったまましばらく立っていました。形のいい一枚を焼き直すのは難しくありません。でも、耳の曲がったこの子を見ていると、眠る前に自分の毛布を引き寄せるみたいで、すぐに端へよける気になれなかったのです。
そこへ、ひまりちゃんが星型のチョコを小皿に分けながら来たのです。「あれ、羊さん、片耳だけお昼寝してるんだもんっ」。そう言われて、こむぎは思わず笑ってしまいました。こむぎには失敗した耳に見えていたのに、ひまりちゃんには眠そうな耳に見えたのです。でも、お客さまに出すなら、いつもの形を守るべきかもしれません。「これ、どう思うのです?」と聞くと、ひまりちゃんは顔を近づけ、左右からお皿を眺めました。それから「こっち向きだと、お話を聞いてるみたい」と、曲がった耳が見える方へお皿を少し回したのです。たったそれだけで、羊は何かを待っている顔になりました。
るなさんにも見てもらおうと、三日月型のカウンターへ運んだのです。るなさんはラベンダー色のエプロンの端を整えながら、パンの輪郭を一度だけ確かめました。「焦げていないし、厚みも大丈夫だよ。耳はそのままにしよう」。その短い言葉で、こむぎの肩から力が抜けたのです。るなさんは続けて、「形を隠そうとして蜂蜜をかけすぎないでね」と言いました。まさに、こむぎが考えていたことでした。小さな器に蜂蜜を別添えにして、パンはパンのままでお出しする。そう決めてから、こむぎは曲がった耳の先に触れないよう、皿の縁だけを布で拭きました。
日が沈んで扉が開くころには、深い藍色の壁に星屑ライトがぽつぽつ映っていたのです。水槽のクラゲは、光を背にすると薄い紙を水に浮かべたように見えます。こむぎはカウンターから客席へ何度も目をやりながら、焼きたての香りが薄れないうちにトーストを届けたいと思っていました。最初に入ってきたお客さまは、水槽の近くの席を選びました。手袋を外して丁寧に二つ折りにし、メニューを閉じるまで、少し時間をかけていたのです。「温かいものがいいな」と言われたので、こむぎは羊が一匹トーストと三日月ラテをご案内しました。お客さまは羊の名前を聞いて、小さくうなずいたのです。
厨房へ戻ると、さっきの曲がった耳の一枚が、網の上で待っていました。まだ温かさが残っていたので、表面を軽く焼き直し、端を焦がさないように見守ったのです。蜂蜜の器を添え、白い皿の空いたところに、ごく薄い粉糖をひと振りしました。粉は雪にはならず、羊の足もとに細い道を作っただけでした。運ぶ途中、こむぎの羊の耳カチューシャが少しずれて、急に自分まで片耳を傾けている気がしたのです。直そうとして片手を離すより、お皿を水平に保つ方が大事。そう思って背筋を伸ばすと、ラテの湯気が少し先を歩くように見えました。
お皿を置いたとき、お客さまの目はまっすぐ曲がった耳に向かったのです。こむぎは先に説明しようとして、「あの、この耳は」と言いかけました。するとお客さまが、「聞き耳を立ててるみたいですね」と言ったのです。こむぎは続きの言葉を忘れてしまいました。水槽では一匹のクラゲがゆっくり向きを変え、銀色の光が皿の縁を通り過ぎます。「そうなのです。今夜のお話を聞きたくて、少しだけ傾いているのかもしれません」と答えると、お客さまは蜂蜜の器を手元へ寄せました。「じゃあ、この子には何を話そうかな」。パンを食べる前の席に、短い沈黙がふんわり座ったのです。
そのあと、お客さまは手袋の片方から小さな糸くずを取って、指に巻きつけていました。こむぎが水を足しに行くと、「今日はうまく話せなかったことがあって」と、湯気の向こうでぽつりと言ったのです。こむぎは何があったのか尋ねず、グラスを置いて耳を傾けました。「帰り道に、言いたかった一言だけ思い出したんです」。返事を急ぐと、まだ温かいその一言をこぼしてしまいそうでした。だから、「こむぎも、あとから言葉が追いつくことがあるのです」とだけ伝えたのです。お客さまは少し笑って、「この羊には聞こえた気がします」と、パンの耳へ蜂蜜を一滴落としました。
一口目は、曲がった耳の先からでした。蜂蜜が焼き目の細かな穴にしみ込み、お客さまが噛むと、かすかな音がしたのです。こむぎには厨房で聞くより小さく、それでいてはっきりした音に聞こえました。お客さまは「まだ温かい」と言って、皿を両手で包むようにしていました。こむぎは胸の奥で、焼き直してよかったと思ったのです。次のご注文を取りに行く前、余った粉糖のふたをきちんと閉め、蜂蜜の瓶の口を拭きました。手を動かしていると、さっきまで心に引っかかっていた「まっすぐでないといけない」が、少しずつほどけていくようでした。
閉店が近づいたころ、お客さまの皿には羊の輪郭が少しだけ残っていたのです。最後のひとかけは、角砂糖ほどの大きさでした。「ここ、取っておいたんです」と見せてくれたのは、まっすぐだった方の耳です。曲がった方から先に食べた理由を聞くと、「先に話を聞いてもらったから」と答えました。こむぎは、お客さまが最初の一言をもう一度心の中で言えたのかもしれないと思いました。でも、それはこむぎが決めることではないのです。「また、温かいうちにお持ちするのです」と言うと、お客さまは最後の耳を食べ、空になった皿をそっとこちらへ寄せました。
片づけのあと、こむぎは厨房に残ったパンの端を一つ焼いて、ひまりちゃんと半分こしたのです。形は羊ではなく、ただの小さな三角でした。ひまりちゃんは「これは何の耳?」と聞き、こむぎが「たぶん、夢の耳なのです」と答えると、二人で声を抑えて笑いました。水槽の前では、るなさんが照明を一つずつ落としていました。さっきまで客席を照らしていた星が消えるたび、ガラスに映るこむぎの羊の耳が少しはっきりします。今日のパンは、見本に並べたら少し不揃いかもしれません。でも、あの席でちゃんと役目を見つけたのです。
帰る前に、こむぎは明日の仕込み用の布をたたみました。角をそろえても、柔らかい布は端が少し丸くなるのです。指で押さえつけるのをやめて、その丸みのまま棚へ置きました。お客さまの言いたかった一言が、いつか相手にも届くかどうか、こむぎには分かりません。ただ、言葉が遅れてやって来る夜にも、耳を傾けてくれる場所はあっていいと思うのです。今夜はパンの香りがまだ袖に残っています。眠るとき、こむぎの耳も少し傾いているかもしれません。どこかで誰かの小さな声が聞こえたら、急がず、夢の底で待っていたいのです。
