夕方、まだお客さまのいない厨房で、羊が一匹トーストの準備をしていたのです。パンを型からそっと外したとき、右の耳だけがふにゃりと内側へ曲がってしまいました。焼けば戻るかなと思って網の上に置いたのですけど、こんがり色がつくほど、耳は眠そうに垂れていったのです。いつもの羊は両耳をぴんと立てているから、これはお皿には乗せられないかもしれません。こむぎは新しい一枚を切りながら、曲がったほうを小さな皿に避けました。指についた粉がラベンダー色のエプロンの星模様に落ちて、白い星が一つ増えたみたいでした。まだ開店前なのに、パン一枚にしょんぼりしてしまうなんて、おかしいのです。でも、焼きたての匂いはどちらからも同じようにして、そのことが少しだけ胸に残りました。
階段の向こうで扉が開く音がして、藍色の壁に星屑の明かりがともりました。最初のお客さまは三日月型のカウンターの端に座って、メニューを開いたまま、しばらくクラゲの水槽を見ていたのです。ページの角を押さえた指は動かず、銀色の水面だけがその下で揺れていました。こむぎが「おかえりなさいなのです」と声をかけると、その方は少し遅れて笑い、「今日は、急いで食べなくていいものがいいな」と言いました。急いで食べなくていいもの。こむぎは頭の中でメニューをめくって、焼くあいだも、湯気を眺めるあいだも楽しいトーストをすすめたのです。お客さまは「それにします」とうなずき、肩にかけていた力を、ほんの少しだけ下ろしたように見えました。
厨房に戻ると、新しく切った羊はきれいな形のまま待っていました。けれど、こむぎの目は隣の小皿に向いてしまうのです。曲がった耳の先に焼き色が濃くついて、まるで寝ぐせみたい。指で伸ばしてみたくなりましたが、触れればぱきっと折れそうで、そのままにしました。ひまりちゃんが通りかかって、「あ、この子、眠っちゃったの?」と首をかしげました。「耳だけ、先にお昼寝したみたいなのです」と答えると、ひまりちゃんは声を立てずに笑いました。こむぎは、その笑いを聞いてやっと、失敗の形にも見方があると気づいたのです。でも、お客さまに出すものはきちんと作りたいから、寝ぐせの子はこむぎたちのおやつにすると決めました。
新しい羊を焼くあいだ、トースターの窓を何度ものぞきました。耳の端が焦げないように位置を少し直し、焼き色が背中まで届くのを待つのです。こういう時間は好きなのに、さっきの一枚を思い出すと、手が急ぎそうになりました。みおんさんが、カップを並べながら「香りが来ましたね」と言ったので、こむぎは深く息を吸いました。小麦の甘い匂いに、温めたお皿のほのかな熱。ちゃんと待てば、パンは自分の速さで焼けるのです。こむぎまで慌てていたら、お客さまにすすめた言葉と反対になってしまいます。タイマーの小さな音が鳴るまで、両手をエプロンの上で重ねて待ちました。
焼けた羊には、はちみつを細い線にしてかけました。耳の先には一滴だけ。つやつやしたところを見ていると、早く運びたい気持ちと、もう少し眺めていたい気持ちが半分ずつになるのです。運ぶときは両手で皿の縁を包み、歩くたびに揺れる湯気をこぼさないようにしました。お皿をカウンターへ置くと、お客さまはすぐに手を伸ばさず、「耳から食べるか、最後に残すか、悩みますね」と言いました。こむぎは自分の羊耳カチューシャに触れて、「こむぎなら最後にするのです。いちばん軽いところを、ゆっくり味わいたいのです」と答えました。お客さまは笑って、まず背中の端を小さく切りました。ぱりっとした音が、水槽の泡の音にまじって、思ったより遠くまで届いたのです。
お客さまが一口目を飲み込むまで、こむぎは少し離れてカップを拭いていました。「今日はずっと、次のことを考えていたんです」と、ぽつりと聞こえました。「ここでは、今の一口のことだけ考えられそう」。うれしくてすぐに返事をしたかったのですが、言葉を探しているうちに、クラゲが水の中をゆっくり上っていきました。こむぎは「では、次の一口も、あたたかいうちにどうぞなのです」とだけ言いました。大きな励ましを並べるより、目の前のお皿が冷めないようにするほうが、今のこむぎにはできることだったのです。お客さまはうなずいて、今度は耳の手前を切りました。
しばらくして、ひまりちゃんが厨房の入口から手招きしました。小皿の寝ぐせの羊を指して、「これ、一口目、もらってもいい?」と言うのです。いつもなら、焼きたての一口目はひまりちゃんに取られちゃうのですけど、今日はこむぎが先に耳をちぎりました。「この子は、こむぎが最初に味見するのです」。少し濃い焼き色のところはかりっとして、形を気にしていた時間まで香ばしくなったようでした。それからひまりちゃんに半分渡すと、「おいしいよ、寝ぐせの子」と、口元を隠しながら教えてくれました。お客さまの分を焼き直したことも、この一枚を捨てずに食べたことも、どちらもよかったと思えたのです。
カウンターに戻ると、お皿には羊のしっぽみたいな小さなかけらが一つ残っていました。お客さまは指でつまむ前に、水槽のほうへ目を向けていました。クラゲの影が銀色の縁に映り、天井の明かりがはちみつの名残をほんの少し光らせています。かけらの横にはナイフがまっすぐ置かれ、使い終えたお皿なのに、まだ小さな食卓のようでした。「最後まで取っておいたんです」と言って、そのかけらを食べました。こむぎは何か尋ねず、空いたカップに温かい飲み物を足すかだけ確かめました。「今日はもう、十分です」。その声は、入ってきたときよりも少しゆっくりでした。こむぎもつられて、いつもよりゆっくりお皿を受け取ったのです。
お見送りのあと、カウンターを拭く布を一度だけ止めて、さっきの席を眺めました。何かが大きく変わったわけではないのです。お客さまは明日も忙しいかもしれないし、こむぎだってまたパンの耳を曲げるかもしれません。それでも、あの一口を急がずに食べる時間は、ちゃんとそこにありました。るなさんが「片づけ、手伝おうか」と来てくれたので、「もう少しで終わるのです」と答えました。るなさんは水槽の明かりを落とす前に、こむぎの手元を一度見て、静かにうなずきました。いつもの店内に戻っていくその短い間が、今日はふしぎとあたたかかったのです。
閉店後、厨房の網に残った細かなパンくずを払いました。寝ぐせの羊がいた場所はもう空っぽなのに、香りだけが少し残っていました。お昼寝前に毛布の端を整えるみたいに、明日の型を棚へ戻すのです。次に耳が曲がったら、まず焼き加減を見て、それから、その子に似合う食べ方を考えようと思いました。お客さまに出す一枚はいつも丁寧に。自分たちが食べる一枚にも、同じだけ「おいしい」を見つけたいのです。帰るころ、藍色の壁に最後の灯が細く残っていました。こむぎの羊耳も少し傾いていたので、そっと直しました。今夜は眠る前に、あの軽い耳の音を思い出す気がするのです。
