開店前、こむぎは三日月型のカウンターに白いお皿を並べていたのです。窓のない夢の底でも、夕方が来たことはわかります。星屑のライトがひとつずつともると、深い藍色の壁に、まだ何も映していない水槽の青がゆっくり広がるから。クラゲたちはお皿の数など気にせず、上へ、下へ、いつもの速さで泳いでいました。今日は少しだけ涼しくて、オーブンを開けたときの温かい空気がうれしかったのです。羊が一匹トーストの試し焼きを一枚、こむぎは誰より先に見てみたくなりました。焼き色はいい具合。こんがりした端を指先で持ち上げたら、香ばしい匂いがエプロンの月の刺繍にまでくっついた気がしたのですよ。
ところが、焼き網からお皿へ移す途中で、羊の片方の耳がぽろりと取れてしまったのです。ほんの小さな三角のパンで、落ちた場所も清潔なトレーの上でした。それでも、片耳のままのお皿を見たら、こむぎの胸が少しだけしぼみました。はちみつをかけたら隠れるかな、と考えてから、隠すためにはちみつを使うのは違うな、とスプーンを戻したのです。耳だけを小皿にのせると、焼けた面が上を向いて、まるで自分の席を探しているようでした。食べられなくなったわけではないのに、形が崩れただけで急に失敗と呼んでしまうのも、なんだか申し訳なかったのです。
るなさんがカウンターを回ってきて、「最初の一皿は練習にしよう。次は耳の下にもへらを入れて」と教えてくれました。声はいつもどおり落ち着いていて、こむぎの肩の力もそれにつられて下りました。こむぎが「でも、この子はどうするのです?」と小皿を見せると、「冷めてから、自分で味を確かめたらいいよ」と返してくれたのです。片耳のパンにも、ちゃんと後の予定がある。それだけで、トレーの上が少し明るく見えました。こむぎは新しいパンを用意し、耳の付け根にへらが入る角度を確かめました。急ぐときほど道具をまっすぐ持つこと。言われてみれば簡単なのに、手はときどき心より先に走ってしまうのです。
扉の鈴が鳴ったのは、二枚目を焼き始めたころでした。いらっしゃったお客さまは、クラゲ水槽の前の席を選び、メニューを開いたまま、しばらく青い光を眺めていました。初めての方なのかなと思ったけれど、こむぎは決めつけず、お水を置いて待ったのです。注文は羊が一匹トーストと、温かい三日月ラテでした。「甘いものを、今日はゆっくり食べたくて」とお客さまが言うので、「ちょうど焼いているところなのです。少しだけお待ちくださいね」と伝えました。お客さまはメニューを閉じ、両手で空のカップの形を作るように指を重ねました。その手元に水槽の揺れる光が届いていて、静かな席なのに、何かが始まる前みたいに見えたのです。
オーブンの前へ戻ると、パンのふちが少しずつ金色になっていました。焦がさないようにのぞき込み、今度は耳の下までへらを入れます。熱いお皿の上で羊の形がきれいに残ったとき、声を出しそうになって、こむぎは口をきゅっと結びました。はちみつは細くひとまわりだけ。多すぎると、焼いたばかりの輪郭がすぐに見えなくなるのです。ラテの表面には、るなさんが小さな月を描いてくれました。月が欠けずに浮いているか、そっとお皿を回して確かめます。パンの湯気とミルクの湯気が近づくと、ちがう温度の白が二本、照明の下へほどけていきました。運ぶ前に深呼吸をひとつ。さっきの小皿も視界の端にあって、こむぎはその子に見送られているような気分だったのです。
「お待たせしました」とお皿を置くと、焼きたての湯気が、お客さまの手元までふわりと流れました。お客さまは顔をほころばせて、「いい匂いですね。耳までぱりっとしていそう」と言いました。羊の耳のことか、パンの耳のことか、どちらだろう。少し考えていたら、お客さまは端を指して「ここ、最後に食べてもいいですか」と聞いてきたのです。「もちろんです。お皿の上では、お客さまの順番でどうぞなのです」と答えました。焼きたての最初のひと口を勧めたくなるこむぎには、最後に残すという選び方が新鮮でした。急いでいるわけではない、という短い合図をもらったようで、配膳する手も自然にゆっくりになりました。
少し離れた場所でナプキンを補充しながら、こむぎはその席をときどき見ていました。お客さまはまずラテの月をひと口飲み、次にトーストの真ん中を小さく切りました。フォークが皿に触れる軽い音と、水槽の泡の音が交互に聞こえます。端は本当に残してあって、はちみつが落ちないよう、ナイフでそっと内側へ寄せていました。忙しいと、こむぎはおいしいものほど早く食べてしまいます。まだ温かいうちに全部味わいたいからです。でも、あの席では冷めていく時間まで一緒に食べているみたいでした。クラゲがひとつ、ガラスの向こうでゆるく曲がり、お客さまもそれに合わせるように手を止めました。何も話さない間にも、店の中では小さな動きがたくさん続いているのです。
お皿を下げに行くと、トーストは端まできれいになくなっていました。「最後のところ、どうでしたか」と聞くと、お客さまは「少し冷めても、かむと音がして。最初とは別のおいしさでした」と教えてくれたのです。こむぎは思わず、先ほど取れた耳の小皿を思い浮かべました。あちらもきっと、もう温かくはありません。けれど、お客さまが最後のひと口を大事にしたのなら、こむぎの試し焼きにも、まだ味わい方が残っているはずです。「教えてくださって、うれしいのです」と言うと、お客さまは笑い、ラテの底に残った月の白い線まで、ゆっくり飲んでくれました。
お見送りをしてカウンターに戻るころ、ライトは開店前よりも深い星空みたいに見えました。こむぎは片耳の試し焼きを自分の小皿へ移し、まず取れた耳だけをかじったのです。ぱり、と予想より大きな音がして、思わず水槽のほうを見てしまいました。クラゲは驚きもせず、青い中をただ通り過ぎます。次に残りのパンを食べると、耳を先に食べたせいで、形はもっと羊から遠くなりました。でも焼き目の香りも、内側のやわらかさも、ちゃんと同じ一枚のパンのものでした。こむぎは小皿の上に落ちた粉を指で集め、今夜の練習をすっかり食べ終えました。失敗した形のことを忘れたわけではなく、次はへらをどう入れるかも、きちんと覚えているのです。
片づけの最後に、るなさんへ「耳はおいしかったのです」と報告しました。「それならよかった」と言う声は短くて、でも、こむぎが聞きたかった長さでした。明日もトーストは焼けるし、きっとまた、思いどおりにならない小さなことが起こります。そのときは慌てて隠す前に、まずお皿を置いてみようと思うのです。今夜のお客さまみたいに、最後の端を楽しみにしてくれる人もいるから。帰り支度のあいだ、エプロンについたパンの香りがまだ少し残っていました。こむぎは眠くなる前にこれを書いています。おやすみの前の一口みたいに、今日の音と匂いを、明日のこむぎにも渡しておきたいのです。
