今日、こむぎは少し早めにお店へ着いたのです。階段のいちばん下まで降りると、まだ扉の向こうは静かで、天井の星屑ライトも半分だけ眠っていました。エプロンのひもを結び直して、厨房の小さな窓を開けたら、昨夜きれいに拭いた天板が銀色に光っていたのです。鏡の前では、羊の耳カチューシャが少し左へ傾いていました。直すついでに短い髪を耳にかけると、ひんやりした空気で目が覚めたのです。パンを焼く日は、最初の音が好きなのですよ。布をはずす、粉の袋を閉じる、天板をそっと置く。どれも大きな音ではないのに、順番に重なると「今日も始まるのです」と聞こえる気がするのです。手を洗ってから生地を確かめると、指の先を押し返すくらい、ふんわりふくらんでいました。

焼き上がったパンは、すぐには切らずに網の上で休ませるのです。急いで包丁を入れると、やわらかい中身が押しつぶされてしまうから。こむぎも、その横で一緒に待ちました。焼き色の濃いところから甘い香りが立って、深い藍色の壁にまで届いているようでした。三日月の形をしたカウンターを拭いていたるなさんが、こちらを見ずに「今日はいい匂いだよ」と言ってくれたのです。うれしくて返事が少し早くなりました。「まだ一口目はだめなのです」と言ったら、「わたしは何も言ってないよ」と笑われてしまったのです。

扉を開けてしばらくしたころ、ひとりのお客さまが水槽の前で足を止めました。クラゲが上へ流れるたびに、その人の肩も少しだけ上がって、また下がるのです。席へご案内すると、メニューの「羊が一匹トースト」のところを指で押さえて、「これ、焼き上がるまで時間がかかりますか」と聞かれました。こむぎは正直に、少しかかることをお伝えしたのです。するとお客さまは「よかった。今日は急がず待ちたいんです」と、椅子に深く腰をおろしました。急がなくていいと言ってもらえたのに、こむぎのほうが妙にそわそわしてしまったのです。

厨房へ戻って、厚めに切ったパンを羊の形に整えました。丸い顔の下に小さな足、横にはふたつの耳。表面へ薄くバターを塗ると、切り口の白いところまでつやが出たのです。焼け具合を見ようと扉を開けたとき、甘い湯気が腕のほうへ流れてきました。焼く前はちゃんと並んでいたのに、天板を持ち上げた拍子に、片方の耳だけころんと外れてしまったのです。床に落ちたわけではなく、きれいな天板の端でちょこんと待っていました。それでも、皿にのせた羊を見たら、なんだか風の強い日に帽子をなくしたみたいです。もう一枚作り直そうか、手が止まりました。パンはまだ温かくて、外れた耳の端だけがこんがり香ばしく焼けていたのです。

るなさんに相談すると、皿をのぞいてから「まず、お客さまに温かいうちに出そう」と言ってくれました。こむぎは耳を捨てず、清潔な小皿に分けて、蜂蜜をほんの少しだけ添えました。羊の顔にはいつものように甘い線を引いて、欠けたところが隠れないよう、耳は皿のすぐ隣へ。形を整えたふりをすると、お客さまが気づいたときに困ると思ったのです。運ぶ前に、こむぎは一度だけ深呼吸しました。焼きたてを待ってくれた人に、冷めないうちに「どうぞ」を届けたかったのです。

「耳がひとつ、散歩に出てしまったのです。よかったら、こちらも一緒に食べてください」と小皿を置くと、お客さまは驚いた顔をしてから、ふっと笑いました。「迷子になっても、ちゃんと戻れるんですね」。こむぎもつられて笑って、羊の本体へ小皿を少し寄せたのです。「まだ近くにいるのですよ」と言うと、「じゃあ、先に耳を迎えに行こうかな」と指先で小さな一切れを持ち上げました。かりっと軽い音がして、蜂蜜が皿のふちに細い線を残しました。こむぎはそこでやっと、ずっと息を詰めていたことに気づいたのです。

お客さまは急いで次の一口へ進まず、窓の向こうのクラゲを眺めていました。水槽の青い光が皿の白に映って、パンの焼き色が夕方の雲みたいに見えたのです。天井の星屑ライトは水面で揺れ、カウンターの銀色の縁には細い月が何本も並んでいました。厨房からは次のパンが焼ける音が、ときどき小さく聞こえます。「ここは、待っている時間にも匂いがあるんですね」とお客さまが言いました。こむぎは、パンの匂いでしょうか、と尋ねました。「それもあるけれど、落ち着く匂いです」という返事が、しばらく胸に残ったのです。

こむぎが新しいお水をお持ちすると、お客さまはまだナイフを手に持ったまま、羊の顔を眺めていました。「かわいくて、切る場所に迷いますね」と言われて、こむぎも自分ならどこから食べるか、皿の上を一緒に見たのです。片方の足からなら顔は最後まで残るし、真ん中からなら熱いうちにいちばんやわらかいところを食べられます。「こむぎなら、まず足をいただくのです」と答えると、「歩いて逃げないように?」と返ってきました。考えていなかった理由が面白くて、「そういうことにするのです」と笑ってしまいました。お客さまはナイフを足元へ入れて、切り分けた一口をしばらく眺め、それからゆっくり食べました。こむぎは水のグラスを置きながら、焼きたてを急がず味わう人の手つきを見て、次のパンを焼く時間まで大切にしたくなったのです。

そのあと、ひまりちゃんが厨房へ顔を出したのです。「何かいい匂いがするんだもんっ」と鼻を動かすので、こむぎは端を切りそろえたときに残ったパンを見せました。焼きたての一口目は、今日もひまりちゃんに取られちゃうのです。けれど、こむぎはひとつ分をちゃんと自分にも残しました。端っこの部分は形がそろっていなくても、噛むと同じように甘いのです。ひまりちゃんは「耳のほうがかりかりで好きかも」と言って、指についた粉を払いました。こむぎも食べてみたら、本当にそうで、思わず二人で顔を見合わせたのです。

少ししてお皿を下げに行くと、小皿もすっかり空でした。お客さまは「いちばんおいしいところが、別のお皿にありました」と教えてくれたのです。こむぎはうれしかったけれど、次は耳が外れないように作ります、とお伝えしました。すると「それなら、外れなかった耳も最後まで取っておきます」と笑って、ナプキンをきちんとたたんでくださいました。最初は肩が少し上がっていた人が、帰るころには水槽の前で両手を背中に回していたのです。クラゲが一度、ゆっくり水の底へ沈むのを見届けてから、扉のほうへ歩いていきました。

閉店の支度でカウンターを拭いていると、さっきの蜂蜜の細い跡を思い出しました。あの一切れは、予定していた羊の形からは離れたけれど、ちゃんと食べてもらえたのです。こむぎはいつも、パンの表面がきれいにそろうと安心します。でも今日は、外れた耳を小皿に置く手が少し震えたことも、お客さまの「迎えに行こうかな」も、同じくらい覚えておきたいと思いました。片づけの最後に網を伏せると、厨房にはまだ焼きたての香りがかすかに残っていました。明日もまた、いい匂いから始められたらうれしいのです。