今夜、お店を開ける前の台所で、こむぎはパンに呼び止められたのです。焼き上がりを確かめて、網の上へ移したときでした。ぱち、と、とても小さな音がしたのですよ。最初はエプロンの端が何かに触れたのかと思って、月の刺繍をそっと押さえました。でも、もう一度、今度は少し低い音が、こんがりしたパンのほうから聞こえたのです。焼き色のついた丸いところを眺めているうちに、これは寝返りかもしれません、と思いました。あたたかいお布団に入ったばかりの、気持ちのよい寝返り。こむぎもお昼寝の最初に、ちょうどこんなふうに肩の力が抜けるのです。網の脚に指をぶつけないようにかがんで、しばらく聞いていたら、開店を知らせるるなさんの声がしました。

日が沈んで、お店の星屑ライトが藍色の壁にうっすら映り始めたころ、お客さまが三日月型のカウンターへいらっしゃいました。お飲み物を選んだあと、台所のほうを見て、「今日は、いい匂いがするね」と言ってくださったのです。こむぎはうれしくなって、羊が一匹トーストがちょうど焼けるところなのですよ、とお伝えしました。それから、つい、「さっきのパンは、寝息まで聞こえたのです」と付け足してしまったのです。お客さまは少し首をかしげて、それから笑って、「じゃあ、起こさないように食べようかな」と。こむぎはお皿を取りに行きながら、食べるときにはさすがに起きるのでは、と考えてしまいました。そこはまだ、パンに聞いていないのです。

白いお皿を用意して、羊の形に焼き上げたトーストをのせました。ふくらんだ背中のところは薄いきつね色で、耳の先はそれより少し濃い色なのです。いつもならここで蜂蜜をかけるのですけど、今夜は小さな白い器に入れて、横へ添えることにしました。表面がしっとりする前なら、さっきの音が聞こえるかもしれません。もちろん、お客さまにも先にそうお話ししたのですよ。「聞こえなかったら、こむぎの聞き間違いだったということでお願いしたいのです」と言うと、「そのときは普通においしくいただくよ」と返してくださいました。その言い方がおだやかで、こむぎはようやく、何かを成功させなくてもよいのだと思えたのです。

ところが、お皿を置いてみると、ちっとも聞こえないのです。カップを受け皿に戻す音が、思ったよりはっきり響きました。奥ではるなさんが引き出しを閉めていて、水槽からはいつもの低い水の音がします。こむぎはつい、パンに近づきすぎて、カチューシャの羊の耳が視界の端へ入ってきました。これでは、こちらの羊ばかりが一生懸命なのです。お客さまに笑われて、こむぎも笑って、それでまた音を聞き逃したような気がしました。「もう蜂蜜をかけてもよいのですよ」と言いかけたところで、お客さまが手を止めました。「少し待ってみたいな」。そのひとことで、こむぎが一人で急いでいたことに、やっと気づいたのです。

カウンターの端にあった小さな砂時計を、お皿の近くへ持ってきました。どのくらい待つかを決めるためではなく、見ているものがあったら、耳だけを頑張らせずに済むかもしれないと思ったのです。さらさら落ちる白い砂と、ゆっくり冷めていく焼きたての羊。二つを並べると、こむぎまで眠ってしまいそうでした。でも、今はちゃんと起きているのですよ。こむぎは自分の側のカウンターに両手を置いて、首を少し傾けました。お皿の銀色の縁に、天井の光が細くつながっています。蜂蜜の器の取っ手には、ほんの小さな影ができていました。お料理をお届けするとき、いつも見ているはずなのに、今日はその取っ手まで、初めて会ったもののようだったのです。

ぱち。今度は、確かに聞こえました。こむぎは思わず顔を上げましたが、お客さまはまだパンを見ています。「今の、聞こえましたか」と尋ねたら、「ごめん、砂を見ていた」とのことでした。えへへ、こむぎが持ってきた砂時計なのですから、それは仕方がないのです。二人で顔を見合わせてから、もう一度だけ待つことにしました。さっきまでこむぎは、音がするところをお見せしたくて、パンの表面ばかりを見張っていたのです。でも今度は、水槽でクラゲが傘を閉じるのを眺めていました。ふわりと上へ動く体の向こうで、ラベンダー色の光が揺れます。そのとき、お客さまの指が、こちらを呼ぶようにほんの少し動いたのです。

「聞こえた」。声まで小さくなっていて、こむぎはうれしくて、何度もうなずいてしまいました。お客さまには、薄い紙をそっと丸めるような音に聞こえたそうなのです。こむぎの思った寝息とは違いましたけれど、言われてみたら、そういう音にも聞こえるのですよ。同じ羊を前にして、別々のものを思い浮かべていたのがおもしろくて、こむぎはもう少しお話を聞きたくなりました。でも、パンのお腹はまだあたたかいうちがおいしいのです。蜂蜜の器を少し寄せると、お客さまも待っていましたというように手を伸ばしました。金色の細い線が羊の背中を渡って、焼き目のくぼみにゆっくりたまっていきます。ここからは、食べるほうの時間なのです。

ナイフが入ると、さくり、と、先ほどよりもずっと元気な音がしました。白い中身から、ほのかな湯気がほどけていきます。お客さまは一口食べてから、「ちゃんと起きたね」と言いました。こむぎも、あの羊は今、伸びをしているところなのだと思ったのです。そうお返事をしたら、今度は二人とも声を出して笑ってしまいました。待っているあいだに、冷めすぎてしまったのではと少し心配していたのですけど、中はまだふんわりしていると教えていただけました。こむぎはお水を足して、それから別のお席のお皿を下げに行きました。歩き出した足が、来たときよりも少し軽くて、エプロンの裾が膝の横で小さく揺れたのですよ。

そのあと、使い終わった砂時計を戻していたら、るなさんに「何をそんなに真剣に見ていたの」と聞かれました。パンの寝息を待っていたのです、と答えると、るなさんは一瞬だけ黙ってから、「こむぎが寝ちゃったのかと思ったよ」と言いました。今日は起きていたのです。ちゃんと、羊が先だったのです。そう言いながら、こむぎは自分でも少しおかしくなってしまいました。るなさんはお皿の残った席を見て、それから、蜂蜜の器を洗い場へ運んでくれました。こむぎは隣で砂時計の底を拭きました。指の跡を落としてガラスが澄むと、下にたまった砂のてっぺんが、さっきよりもくっきり見えたのです。

お帰りの前に、お客さまが「ごちそうさま。待っているところから、おいしかった」と言ってくださいました。こむぎは、どうお返事したらその言葉をこぼさず受け取れるのかわからなくて、少しだけ間が空いてしまいました。それから、またあたたかくしてお待ちしているのです、とお伝えしました。次も寝息が聞こえるお約束はできません。次はもっとにぎやかな夜かもしれませんし、羊も黙ったままかもしれないのです。それでも、蜂蜜を先にかけるか、少し待ってみるか、お尋ねすることはできます。扉が閉まったあと、お皿を下げると、銀色の縁の内側に小さなパンくずが一つ残っていました。それを見て、今日の羊は最後まで食べてもらえたのだなあと、またうれしくなったのです。

閉店後、台所の網を洗って乾かしながら、こむぎは朝でも昼でもない、このお店の夜の匂いを吸い込みました。焼きたての甘さはもう薄くなって、代わりに、乾いた布と温かいお湯の匂いがしていたのです。砂時計はいつもの場所へ戻しました。蜂蜜の器も伏せて並べたので、次の夜には、すぐ手に取れます。お片づけを終えたら、今度こそこむぎの眠る番なのですよ。目を閉じる前に、あの小さな音をもう一度思い出してみるつもりです。ちゃんと聞こえたと言ってくださった声も、そのあとに続いた、さくりという音も。お腹のあたりがぽかぽかするのは、こむぎが食べたからではないのですけど。今夜はそのまま、よく眠れそうなのです。