今夜のこむぎは、パンが眠るところに立ち会ったのです。といっても、お布団をかけたわけではないのですよ。お店が開く少し前、休憩のおやつに焼いた三つの丸パンを、網の上へ並べていたときのことなのです。ひとつはまんまる、ひとつは少し横長で、もうひとつには、てっぺんに小さな盛り上がりができていました。こむぎの丸め方が、そのまま残ってしまったのです。日没を待つ店内にはまだお客さまの声がなくて、焼き色のついた背中から、細い湯気がのぼっていました。こむぎはミトンを外して、三つともちゃんと焼けたことにほっとしながら、網の下へ敷いた布の端を直していたのです。

そのとき、ぱち、と小さな音がしたのです。最初は、こむぎの羊のお耳が、どこかに引っかかったのかと思いました。頭をそっと触ってみても、カチューシャはいつもの場所に収まっています。もう一度、今度は少し間を置いて、ちり、と聞こえました。音のするほうへ顔を向けると、まんまるのパンの表面に、さっきはなかった細い線が見えたのです。近づきすぎると湯気が頬に当たるので、こむぎは半歩だけ離れました。それから、お皿を出しかけていた手も止めてみたのです。焼きたてパンの匂いを追いかけるのは得意ですけれど、耳を澄ませたのは、ずいぶん久しぶりだったのですよ。

そこへ、開店の支度を終えたるなさんが来ました。「こむぎ、立ったまま寝てない?」と言うので、こむぎはあわてて首を振ったのです。「起きているのです。パンがお話ししているのですよ」。るなさんは網の上を見て、少しだけ顔を寄せてくれました。けれど、こういうときに限って、パンはすっかり静かなのです。こむぎが困っていると、るなさんは「聞かせようとして、押さなくていいからね」と笑いました。指でつつこうとしたのが、ばれてしまったのです。手をエプロンの前へ戻して待っていると、やがて小さく、ぱち。「あ、聞こえたよ」。そのひと言で、こむぎまで焼きたてみたいに頬が温かくなったのです。

開店してまもなく、ひとりのお客さまが三日月型のカウンターに座られました。三日月ラテと、羊が一匹トーストのご注文だったのです。お水をお持ちすると、お客さまは閉じた手帳の角を、指でとんとんと触っていらっしゃいました。こむぎがご注文を繰り返したところで、その指が止まりました。「今、何か鳴りました?」。聞こえた先には、カウンターの作業側に置いた丸パンがあったのです。「パンの寝言かもしれないのです」とお答えしてから、ちょっとだけ言い方を考えました。「焼けたあとに、ときどき鳴るのですよ。こむぎも、さっき見つけたところなのです」。お客さまは手帳から手を離して、網のほうへ体を向けてくださいました。

でも、お客さまと一緒に待ち始めると、また鳴らなくなったのです。そのかわり、奥で食器の重なる音や、水槽の水が巡る音が、順番に耳へ入ってきました。こむぎはトーストの支度へ戻らなくてはいけなくて、パンの前を離れるのが少し惜しくなりました。「こむぎが向こうへ行ったら、鳴ってしまうかもしれないのです」。ついそう言うと、お客さまが「じゃあ、聞いておきます」とおっしゃいました。見張り番をお願いしたみたいで、おかしくなったのです。こむぎはお礼を言って、羊の形のパンを焼き始めました。背中のほうで椅子が小さく動いて、それきり、とんとんという指の音は聞こえませんでした。

蜂蜜を用意していると、「今、二回」と声がしたのです。振り返ると、お客さまが指を二本立てていらっしゃいました。こむぎには聞こえなかったので、どんな音だったのか伺いました。「一回目は、薄い紙を折ったみたいな音。二回目は、それより小さかったです」。こむぎは頭の中で、紙の端をゆっくり折ってみたのです。そう言われると、たしかにそんな感じがします。ぱち、だけでは伝えきれない音を、お客さまは拾ってくださったのですね。「こむぎの聞き逃したぶんまで、ありがとうございますなのです」。お礼を言ってから少し変な言い方だった気がして笑うと、お客さまも、立てていた指を下ろしながら笑ってくださいました。

ラテを運んだとき、深い藍色の壁に、水槽から来た淡い光が揺れていました。クラゲが一匹、傘を縮めて上へ進み、途中でゆっくり向きを変えたのです。天井の星屑ライトはカップの取っ手に小さく映っていて、こむぎが受け皿を置くと、その光もふるりと動きました。お客さまはすぐにはカップを持たず、丸パンと水槽を交互に見ていらっしゃいました。こむぎもつられて見ていたら、どちらも急がずに形を変えているように思えたのです。さっきまで音を聞き逃したくなくて、少し肩が上がっていました。けれど、クラゲが下りてくるのを見届けたころには、手に持ったお盆を、お腹の前で楽に支えられるようになっていたのですよ。

羊が一匹トーストには、蜂蜜をゆっくり回しかけました。耳のあたりにたまった小さな粒が、傾けたお皿の上でつうっと流れて、焼き目のくぼみに収まったのです。お客さまの前へお出しすると、「こちらの羊も鳴くのかな」と聞かれました。「こちらは、さくさくのお返事が得意なのです。熱いうちは、どうぞお気をつけてなのですよ」。お客さまは耳の先を小さく切り、少し冷ましてから召し上がりました。その音を聞いて、こむぎまでお腹がすいてしまったのです。丸パンは、ひまりちゃんとの休憩まで取っておく約束でした。こむぎは味見のことを考えないように蜂蜜の器を片づけたのですけれど、最後の一滴を見ていたら、ますますパンのことばかり考えてしまったのです。

お帰りになる前、お客さまは手帳を一度だけ開いて、何かを短く書き込みました。中身は見えなかったのですけれど、書き終わると、角をそっと撫でて鞄にしまわれたのです。「今日は、待っている時間が長く感じなくて不思議でした」。そう言っていただいて、こむぎは、ちゃんと音を聞かせなくてはと力んでいた自分を思い出しました。パンを出したり、お茶を運んだりする合間に、いつの間にか一緒に待てていたのですね。「また焼けたときは、こむぎも耳を澄ませておくのです」。階段のほうへ向かう足音を見送ってから、カウンターを拭きました。手帳があった場所には何も残っていないのに、布を動かす手つきが、いつもより少しゆっくりになったのです。

休憩の時間、ひまりちゃんに丸パンの話をしたら、さっそく一個を両手で持って、耳の近くへ寄せていました。「もう寝ちゃったのかな?」。「今は、起きているひまりちゃんのお腹へ行く時間なのです」。そう答えると、「じゃあ、一口目もらうんだもんっ」と、うれしそうにパンを割ったのです。中にはまだ、ほんのり温かさが残っていました。こむぎにも半分渡してくれたので、裂け目から細く伸びた白いところを見比べながら、並んで食べました。表面は軽く歯に触れて、中はふわりとほどけます。こむぎは音の話をするつもりだったのに、気がつけば二人とも、次に何を塗ったらおいしいか相談していたのです。眠っていたはずのお腹だけは、すっかり元気だったのですよ。

閉店後、パンを冷ました網を洗って、乾いた布の上に立てました。三つ並んでいた場所が空くと、カウンターが少し広く見えたのです。るなさんに「今日は、よく起きてたね」と言われて、こむぎは胸を張りかけました。でも、返事の途中であくびが出てしまって、あまり立派には決まらなかったのです。明日もパンを焼いたら、匂いだけでなく、最初の音を聞いてみたいと思います。鳴らなかったら、そのままお皿を用意するのですよ。耳を澄ませたあとのお店には、ほかにも聞こえるものがあるとわかったのです。今は、最後のカップをしまうるなさんの足音を聞きながら、エプロンを畳んでいます。こむぎの寝息は、お布団へ着いてからにするのです。