きょうは開店前から、ひまりの足が勝手に弾んでた。天井の星屑ライトをつけると、深い藍色の壁に細い光が散って、三日月型のカウンターまで夜が降りてくるみたい。エプロンの月の刺繍を指でぴんと伸ばして、水槽のクラゲにも「きょうもよろしくねっ」って言ったよ。返事の代わりに一匹がふわりと上がったから、勝手に合図をもらったことにしたんだもんっ。勢いよく走り出したくなったけど、るなさんに見つかったら「床は走らない」って静かに言われるの、分かってる。だから一歩ずつ、グラスの並んだ棚を磨いた。指先で縁をなぞると、かすかな音がして、ひまりの胸の中の開始の合図みたいだった。
最初のお客さんは、水槽に近い席を選んだ。椅子を引く前に、窓じゃないガラスの向こうを少し見上げて、ゆっくり座る人だったよ。机には小さな無地のノートを置いたけど、開いたページはまっ白。ひまりがメニューを持っていくと、星屑ソーダを指さして「これをください」と言ってくれた。声は小さかったけど、ちゃんと届いたよ。ひまりもつられてひそひそ声になりかけて、あわてていつもの元気な声に戻したんだ。「青いしゅわしゅわ、すぐ持ってくるねっ」。その人がちょっとだけ笑ったのを見て、頼まれた一杯をいつもより丁寧に運ぼうと思った。
星屑ソーダのグラスは、近くで見ると細かな銀色がゆっくり回っている。運ぶあいだに氷がこつんと鳴って、ひまりは歩幅まで小さくした。ちゃんとコースターを敷いたつもりだったのに、グラスの外側についた水滴が、ひまりが置いた手元から一粒だけ落ちたんだ。ノートの端に、薄い丸ができた。見つけた瞬間、胸がひゅっと縮んだよ。「ごめんなさいっ、すぐ拭くね!」って布を取りに戻ろうとしたら、お客さんが手を上げて止めてくれた。ページを少し傾けて、「大丈夫。ここだけ月みたい」と言ったの。ひまりには、まだ失敗の丸に見えていたから、すぐには返事が出なかった。
乾いた紙を一枚持って戻ると、その人はノートを開いたまま水槽を見ていた。水の丸は広がっていなくて、淡い縁だけが残っていたよ。ひまりはまず机を拭いて、コースターを真ん中に置き直した。今度はグラスの底もそっと確かめてから載せたんだ。お客さんは「このページ、何か描こうと思って開いたのに、ずっと最初の線が決まらなくて」と教えてくれた。ひまりは白いところをのぞき込みすぎないように、ノートから少し離れて立ったよ。誰かのまっ白なページは、勝手に埋めちゃいけない場所だと思ったから。だけど、そこにできた丸のことは、もう一度ちゃんと見てみたかった。
水槽の青い光が机の端を通るたび、紙の丸が見えたり消えたりした。「さっき月みたいって言ったよね。こっちからだと、クラゲがその中を泳いでるみたいだよっ」と、ひまりは自分の立っていた位置を指で示した。お客さんが椅子をほんの少し動かすと、ガラスに映った傘が、丸の上をふわっと通った。水槽の泡がひとつ上がるたびに、ノートの白さも違って見える。ひまりはいつも水槽の前を何度も通るのに、座る高さから見たことがなかった。二人とも黙って、その一往復を見たよ。ひまりならすぐに星をいっぱい描いてしまいそう。でも、その人は鉛筆を持ったまま、まだ紙には触れなかった。待つ時間にも形があるんだって、そのとき初めて気づいたんだもんっ。
やがてお客さんが、丸の外側に短い曲線を一本だけ引いた。次はちょっと離れたところに、もう一本。ひまりにはクラゲの足にも、水の流れにも見えたけど、何になるかは聞かなかったよ。聞いたら答えを急がせちゃう気がしたから。代わりに「ひまり、そこから見える青が好きっ」とだけ言った。お客さんは鉛筆を置かずに「この席にしてよかった」と返してくれた。たった二本の線なのに、さっきまで動かなかった手が動いたことがうれしくて、ひまりは思わず両手を握った。拍手したい気持ちは胸の中にしまったよ。静かな作業を驚かせたくなかったんだ。
そのあと、ひまりは注文の伝票を取りにカウンターへ戻った。るなさんがグラスを見て、「コースター、今はちゃんと真ん中だね」と小さく言ったから、耳まで熱くなったよ。失敗を見られていたみたい。でも叱る声じゃなかったので、ひまりも「次からは底も見るっ」と答えた。るなさんはほんの少しだけ笑って、磨き終えたスプーンを渡してくれた。そういう笑い方、ずるいんだもんっ。スプーンを受け取ると、冷たい柄に星屑ライトが一本だけ映った。ひまりはそれを落とさないように持ち直して、次の注文に使う器の横へ並べたよ。カウンターの向こうでは、パフェ用の藍色ゼリーが灯りを受けて透けていた。ひまりが大好きないちご色とは違う青なのに、さっきの紙の丸を思い出すと、いつもよりやさしい色に見えた。
しばらくしてお客さんは、ゆめのそこパフェを追加で頼んでくれた。星型チョコを載せた器を運ぶと、ノートには丸を囲むように小さな波が増えていた。でも、ページの半分以上は白いまま。それが途中だから寂しい、とは思わなかったよ。「この星、どこから食べようかな」とお客さんが笑ったので、ひまりは「ひまりなら最後に取っておく! 大事なものは、最後の一口の景品なんだもんっ」と答えた。すると「じゃあ、今日は最後まで描いてからにしようかな」と言われた。ひまりは慌てて「途中で食べても失格じゃないよっ」と付け足したよ。食べる順番も、描く順番も、その人のものだもん。
パフェの器を下げるころ、星型チョコはなくなっていて、鉛筆はノートの上に横向きに置かれていた。空の器のふちにはゼリーの青が少しだけ残っていて、食べ終わったあとにも夜の色があるんだなと思った。お客さんはページを閉じる前、少しだけこちらに向けてくれたよ。丸の中は何も塗らずに残してあって、周りを漂う線が水槽の光みたいにゆるくつながっていた。「完成?」と聞きそうになったけど、ひまりは「見せてくれてありがとうっ」と言った。お客さんは「また続きを描きに来るかも」と答えて、ノートを大事そうにかばんにしまった。帰り際の足取りが、来たときよりほんの少し軽く見えたのは、ひまりのひいき目かもしれない。それでも、入口のところで振り返ってくれた笑顔は、ちゃんと見た。
片づけのとき、丸いコースターを一枚ずつ重ねながら、あの薄い水の輪を思い出した。こぼしたことは次に気をつける。そこは変えないよ。でも、ひまりが失敗だと思って慌てた跡を、別の目で見てくれる人もいるんだね。閉店前の水槽ではクラゲがまた一匹、青い光を持ち上げるみたいに浮かんでいた。朝に勝手にもらった合図への返事みたいで、ひまりは小さく手を振った。明日はグラスの底を確かめてから運ぶ。それから、誰かの手が止まっていたら、急かさず同じ景色を一緒に見てみたいな。ひまりにもできる待ち方、今日ひとつ覚えたんだもんっ。
