今日は、開店前から指先が落ち着かなかったの。階段の上には少し乾いた秋の風がいて、地下へ下りたら、いつもの藍色の夜が待っていた。エプロンの月と星の刺繍を手でならして、鏡の前でツインテールと二つの星型ヘアピンを確かめる。よしっ、準備できた! そう言ってカウンターに出たのに、グラスを並べる順番を一度まちがえて、ひとりで照れちゃった。天井の星屑ライトは急がずに光っているのに、ひまりだけが先に走り出しているみたい。今夜はたくさん笑ってもらおう、って張り切りすぎていたのかもしれない。でも、そういう日こそ何か楽しいことが起こる気がするんだもんっ。

最初に三日月型のカウンターへ座ったお客さまは、星屑ソーダを一杯頼んでから、しばらく水槽を見ていた。クラゲがふわっと上がるたび、青い光がグラスの底にも映る。ひまりが飲み物を置こうとすると、コースターの横に細長いラベンダー色の紙が一本あったの。「これ、落とし物ですか?」と聞いたら、お客さまは首を横に振って、「星を折ろうとして、途中で迷子になりました」と笑った。見せてくれた手の中には、五角形になりかけた小さな紙。まだ角がひとつだけふくらまず、ぺたんと寝ていた。完成していないのに、夜の水面に浮かぶ小舟みたいで、ひまりは目を離せなかった。

「ひまりにも、やり方を教えてくださいっ」と言いかけて、すぐに口を閉じた。お客さまは笑ってくれたけれど、手元の紙をもう一度ほどいて、ゆっくり結び直している。先にソーダをきちんと出して、グラスの水滴を拭いて、ほかの席の注文も確認する。それから手が空いたときに、「隣で見てもいいですか」と聞き直したの。お客さまは「もちろん。上手には教えられないけど」と、紙の端をひまりのほうへ向けてくれた。細い帯を結び、余った部分を五角形に沿わせて巻いていく。説明は静かなのに、指の動きはちょっとだけ踊っているみたい。ひまりの目は、いつの間にかその指先を追うのに夢中だった。

カウンターのメモ用紙を一枚もらって、細く切った帯でまねしてみた。最初の結び目をきゅっと引いたら、角がつぶれてしまう。もう一本は力を抜きすぎて、巻いているうちにほどけた。「あれれ、ひまりの星、寝坊してる?」と笑うと、近くを通ったすずちゃんが「急ぎすぎ」と短く言った。「すずちゃん、できるの?」と聞けば、「……べつに」と言いながら、紙の端を押さえる指の位置を教えてくれる。レトロゲームで遊ぶときもそう。すずちゃんは何でもすぐ答えるわけじゃないけど、ひまりが次の一手を見つけるまで、ちゃんと隣にいてくれるんだもんっ。今日は紙の小さな角にも、それがよくわかった。

三本目は、いちばんはじめの結び目を結ぶところで止まってみた。水槽の前を通るクラゲの影が、すずちゃんの手元をゆっくり横切る。星屑ソーダの泡がひとつ弾ける音まで聞こえた気がして、ひまりはつい息をひそめた。「引っぱらずに、紙の行きたいところを見て」とお客さまが言う。そんなこと言われると、紙に足があるみたいでおかしい。でも、折り目を指の腹でそっとなぞると、さっきまで逃げていた端がぴたりと収まった。胸の中のばたばたも、一緒に小さくなる。今すぐ何か言わなくても、ここにはちゃんと楽しい時間があるんだって、そのとき初めて気づいたの。

できた五角形を両側からつまんで、ふっくらした星にする。お客さまの星は指先にちょうど乗るくらいで、五つの角がすっきりしていた。ひまりのは一か所だけ斜めに飛び出して、転びかけて踏ん張っているみたい。「こっちのほうが、走り出しそうですね」と言われて、思わず声を上げて笑っちゃった。さっきから急いでいたひまりに、そっくりなんだもんっ。お客さまも少し大きく笑ってから、「今日は何をしても遅れている気がして、座っても手を止められなかったんです」と教えてくれた。ひまりは、すぐに元気づける言葉を探したけれど、まだ星を持っている手を見て、まずは「そっか」とだけ返した。

ちょうどそのとき入口の扉が開いて、階段から冷たい風が細く流れ込んだ。乾いたコースターの上に置いたひまりの星が、ころん、と半回転して端へ進む。「待って待って、まだ旅に出ないでっ」と、ひまりは空いた手で受け皿を差し出した。紙の星は皿の真ん中へ着地。お客さまは声を立てて笑い、ひまりまでつられて笑ってしまう。すずちゃんも口元をほんの少しだけゆるめたのを見たよ。あの子に言ったら、きっと「見間違い」と返すだろうけど。新しく入ってきたお客さまへ挨拶をして席を案内したあとも、受け皿の上では斜めの星がじっとしていて、まるで自分で居場所を決めたみたいだった。

戻ってくると、星屑ライトの銀色が受け皿の縁に小さく落ちていた。紙の星そのものは光らない。でも、すぐそばの水槽がゆれると影が少し伸びて、角がもう一本あるように見える。お客さまは完成した星を指で転がしながら、「きれいに作るつもりだったけど、曲がってるほうも好きになりました」と言った。「ひまりもですっ。これは今日の形だもんっ」と答えたら、さっきの自分にも言えた気がした。ちょっとつまずいたことも、急いで失敗したことも、全部なかったことにしなくていい。お客さまはソーダを一口飲んで、もう一度クラゲを見た。その横顔には、席に着いたときよりもやわらかい夜が映っていた。

帰るころ、お客さまは自分で折った星を一つ、手のひらにしまった。「その斜めの星は、ここに置いていきます。次に来たら見せてください」と言う。ひまりはうなずいて、「今夜の冒険の証拠ですねっ。なくさないようにします」と約束した。持ち帰ってもらうほうがいいかな、と一瞬考えたけれど、今日ここで一緒に過ごした時間をお店に残したいのかもしれない。だから、小さな紙の星を清潔なメモ用紙に包んで、カウンターの引き出しにそっとしまった。包む前に下側の角を指で一度だけ確かめる。ぺたんとしていた最初の紙とは、もう違う形だった。引き出しを閉める音はとても静かで、さっき扉が開いたときの風までそこに落ち着いたような気がした。

片づけのとき、指にまだ紙の折り目の感触が残っていた。ひまりはいつも、誰かが元気のない顔をしていると、真っ先に大きな声で笑わせたくなる。それがひまりらしさだって思ってるし、きっとこれからも変わらない。でも今日は、隣で同じところを何度も折り直すだけでも、一緒に笑えるって知ったよ。るなさんに今日のことを話したら、「いい夜だったね」と少しだけ笑ってくれるかな。今度はすずちゃんとも、紙の星を並べて勝負してみたい。急いだら負け、っていう特別なルールで。夢の底に戻ってきたあの人に、斜めの角を見せる日が楽しみなんだもんっ。